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実相寺監督とウルトラのステージ [実相寺監督が語るウルトラ2]

ルトラのステージとは、何のことか?これは、ウルトラマンの撮影場所を言っている。昔の名前で「東宝美術センター」、通称は「美セン」だ。現在の名称は、「東宝ビルト」である。東名高速の用賀インター付近にある。筆者は行ったことが無いが、生きている間に訪問しておきたい場所のひとつである。「見学」出来るのか等、よく調べてから行くのがよろしいかと思う。

平成のウルトラシリーズである、『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンダイナ』『ウルトラマンガイア』『ウルトラマンコスモス』などでも、この東宝ビルトにレギュラーセットが組まれた。もはや円谷プロとこの撮影所とは、切っても切れない間柄にある。

この辺りは砧(きぬた)という地名があって、小学1~2年生の頃だったと思うが、「砧ファミリーパーク」という場所へ、学校の遠足で出かけた思い出がある。現在の「砧公園」のことのようであるが、とにかくとてつもなく広い公園なのである。人々の「憩いの場」として、都内にこれ程の規模の公園があることに驚きと共に、安堵の気持ちが広がる。さすがは、世田谷区だなと。


★★★★★★★★★★★★
旧道に面した東宝撮影所辺りは、まだ往年の風情が残っているが、北東側はかなり縮小されてしまった。残念なのは、おやじさん(円谷英二氏のこと)が君臨していた大プールやステージが消えたことである。美センへ通じる道は、ほぼ往年のままである。

路傍のお地蔵さんも、変わっていない。ちょうどウルトラの頃に復元再建された妙法寺という日蓮宗のお寺の山門も、健在である。ステージの立つあたりは、往時と比べると、ずいぶん明るい印象に変わっていた。

あの頃は、もっと鬱蒼と茂っていたような感じがしたように思う。明るい印象に変わったのは、入口が横手に移り中央にあったステージが無くなって、広場になったせいかもしれない。狭い入口のすぐ横に、二階建てのプレハブの美術部作業場があった。

様々な造り物、怪獣のぬいぐるみなど、室内では収まり切れずに、美術の連中は所狭しとミニチュアを表に並べ、入口の方にまではみ出させて、仕事をしていたものだ。忙しさに、夜を徹して作業をしていたから、会社の入り口を入っただけで、活気が伝わってきたものだった。

怪獣の「ぬいぐるみ」の最終的な微調整も、そこでやっていたと記憶している。本家の東宝のような立派なステージ群とはまた違った、ブリキ張りにトタン屋根の倉庫といった空間に、我々はウルトラの夢を結んでいた。

それぞれのステージには冷房ひとつ無かったが、撮影にはそれほどの支障はなかった。おそらく、このあたりの鬱蒼とした印象が消えて思えるのは、付近が公園として整備されたことが大きい。もっとも東名高速道路が出来て、往時とは地形も道路もかなりの変わりようだ。

それでは、科学特捜隊の本部があったステージを、のぞいてみることにしょう。ビルトのいちばん西側に位置するステージである。そのステージは崖の上にあり、外に出れば、喜多見三丁目方面から丹沢にかけての眺望が利いた場所だった。

よくこんな所で、怪獣や宇宙人相手に戦う指令を発していたものだと、つくづく感心してしまう。現在、ステージは物置きに変わっており、雑多な道具類が置かれている。でも「科学特捜隊本部指令室」は、すべてここで撮影されたのである。こんな所で作っていたのかと、不思議な感じがする。

監督の作品で言えば、『空の贈り物』で隊員たちが寝呆けたのも、『怪獣墓場』で怪獣供養の法要を営んだのも、すべてこの場所だったのだ。天井も低く、後ろへ下がる余裕もない場所だったし、ほとんど二面した使えないセットだった。

そのためだろうか、『ウルトラマン』科特隊のカットには、あまり広い空間性が感じられない。飯島さん(監督)なんか、狭さを補ってよく合成カットを使っていたが、こと本部に関しては、合成を使って広さを出していたという記憶が無い。

ふだんの撮影が16ミリ、合成カットは35ミリという条件だったし、35ミリを使うことをかなり制限されていたから、本部の雰囲気描写に35ミリはもったいない、ということだったのかもしれない。冷暖房の設備も無かったから、照明や美術の連中は、季節それぞれに苦労をしただろう。

撮影はセットの分も、全部アフレコだったのである。アフレコというのは、撮影の時にはセリフなど一切の音声を録らず、仕上げの段階で声を入れる方式である。撮影スケジュール重視のやり方である。

当時のテレビ映画は、このオール・アフレコがかなりのパーセントを占めていた。通例は、ロケ分はアフレコ、セットはシンクロ(同時録音のこと)だったが、当時の円谷のシリーズはオール・アフレコが多かった。

ウルトラのレギュラーメンバーたちは、隊長の小林昭二さんをはじめとして、みんなアフレコが上手だった。実相寺監督は、映画の工程の中でアフレコ作業が嫌いだったが、好きだったのはロケハンとDB(ダビング)であった。

ダビングとは、完成した編集ラッシュ(ネガから補正を施してプリントされたフィルムのこと)に、音楽を含めた一切の音付けをすることである。ロケハンが好きなのは、餅を絵に描く夢が膨らむから。DBが好きなのは、仕事に決着がつく解放感があるからであった。  (つづく)

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実相寺監督と続・続ウルトラのステージ [実相寺監督が語るウルトラ2]

ルトラマン』や『ウルトラセブン』のロケ地として世田谷体育館を使ったことを書いたが、理由は簡単、円谷プロから近かったからである。今その付近を歩いても、当時と違って随分周囲が整備されている。マンションも増えたし、道路や公園、野外運動場の整備も比較にならないほどだ。

世田谷体育館から砧緑地へかけても様変わりをしている。世田谷美術館が出来ているし、遊歩道もきちんと整備されている。もはや当時の雰囲気は、円谷プロのシリーズ作品などでまぼろしとして味わうしかない。

世田谷は、円谷プロ以外にも東宝、新東宝(国際放映)などなど、映画の記憶とにおいに満ち溢れていた場所なのだが、ウルトラ散策には、大蔵、砧あたりをお薦めしたい。そして終着地は砧緑地あたりだろう。

幻の『ウルトラセブン』第12話では、怪しい宇宙人の追跡を、そんな牧歌的ともいえる環境で撮ったのである。東名高速の反対側、町名でいえば、岡本あたりも円谷プロではずいぶん撮影をしているし、そこかしこに、ウルトラの痕跡が見つかるはずである。

『ウルトラセブン』の第12話は“遊星より愛をこめて”(*)というタイトルで、残念というかばかばかしい経緯で、現在は欠番になっている。その宇宙人が巣食った場所が岡本だった。ひどく風変わりなモダンな住宅が建っていたのである。そのサイコロのような建物は、残念ながら現存していない。

そのモダン建築から多摩川方向への急坂を下った辺りで『ウルトラマンティガ』の「夢」の回を撮影した。現実で恋に破れた青年が恋人に復讐する夢を結び、夜ごと夢見つつで怪獣を成長させていったアパートは、まさにかつてのモダン建築を仰ぐ坂下にあった。坂上の宇宙人は「まぼろし」となり、坂下のまぼろしは「現実化」したのである。そういう意味で、岡本は忘れられない地域である。

(*)ウルトラセブンにおける、実相寺・佐々木守コンビが作った唯一の作品。脚本家も演出家も関知しないし何も告知されない状態で、この作品は欠番になった。理由は今では広く知られているが、釈然としないことは間違いない。実相寺監督にも言いたいことはあったようだが、円谷プロに迷惑がかかるのを恐れて、沈黙を守っていたという(*)

東名高速の反対側といえば、二子玉川(ふたこたまがわ)を忘れてはいけない。二子玉川園前の高島屋は、駅に直結した大規模小売店舗としては、比較的早くできた方だと思う

。私鉄のターミナルに百貨店が結びついていたのは、関東では、渋谷の東急、浅草の松屋、品川の京浜デパート、池袋の武蔵野デパート、五反田の白木屋くらいだったと思う。関西へ行くと私鉄自体のターミナルが大きく、とても立派なので、目のくらむ思いがしたものだ。梅田の阪急、難波の高島屋、上本町の近鉄とか…。

玉電が二子から別れ、ほぼ西へ、つまり川の上流方向へ走っていたことである。終点の駅名を「砧本村」といっていた。終点は現在の宇奈根公園あたりにあった。「わかもと」なる製薬工場があった手前に、駅はあった。その支線、砧(きぬた)線も、今は記憶の範疇だ。一部は線路跡が遊歩道になっている。

ちょうど高島屋の工事が始まったのが『怪奇大作戦』の頃で、地下深く大胆に掘った工事現場で、「死神の子守唄」の回をロケしている。夜間ロケで、そんなに長いシーンでは無かったが、移動車まで持ち込んだロケをよく許可してくれたものだ。

時代と共に、ロケがしづらくなってきていることも、確かだろう。工事現場などでは、安全確認や基準もあり、何かあれば責任問題にもなろうから、許可もややこしくなるわけだ。

国道246号線沿いの駒沢から用賀にかけては、『ウルトラマン』の頃、よく賑わったドライブインが建ち始めていた。撮影や打ち合わせに、円谷スタッフをよく利用したものだった。しかしその当時に入ったいくつもの店は、ほとんどつぶれるか、様変わりしてしまった。

当時に比べてドライブインも、少なくなっている。過ぎた年月を考えれば当たり前の話なのだが、ウルトラ自体の生命力のおかげで、撮影をしていたのがついこの間のように思え、錯覚に陥ることもしばしばだ。過去への旅は、つらいことも甘美さと同居している。   (おわり)


★★★★★★★★★★★★
幻の12話と言えば、ウルトラファンなら誰もが知っている事件である。簡単に述べると、この回に出てくるスペル星人の姿形が、「原爆被害者を模したようでけしからん」というある団体からのクレームを受け入れて、円谷プロがこの物語自体を封印したということなのだが。
物の見方・考え方は人それぞれだから、意図していなくてもそう見えてしまう、感じてしまうこともあるだろう。物語を作る側には、いわゆる「差別」と取られないよう配慮することが、一層求められることは確かであろう。

1970~80年代に青春を送った筆者にとって、「21世紀」という言葉は「明るい未来」に思えていた。だが実際に21世紀に入ると、戦争のようなことがあちこちで起きて、世知辛い世の中になっている。もっと人を信じることのできる社会・世の中にしなくてはいけないと思う。隣に住んでいる人の顔を見たことがない、そんなことではだめだ。隣同士笑って話が出来るような、風通しのよい関係、それが必要だと思う。「なぜ人を殺してはいけないか?」などと平気でいうような人間がいてはいけない。もっと慈愛の心を持つ人間を増やさなくてはだめだ。このままではメトロン星人ではないが、人間同士が戦い合って自滅していくのは、時間の問題なのかもしれない。すべては、教育の在り方にかかっていると思う。

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実相寺監督と懐かしのオープンセット [実相寺監督が語るウルトラ2]

崎市北部は、けっこうロケの多かった地域であり、とりわけ小田急線の「西生田」駅、現在の「読売ランド前」駅の山の手側に、東宝の“生田オープン”というのがあった。かなり広大で、いろいろな場面を消化できた思い出深い場所である。

その生田オープンが懐かしくて、最近訪れてみたのだが、それは蜃気楼のように消えていて、まったく往時の面影はなかった。開発によって地形が全く変わってしまい、入口がどのあたりだったか見当もつかない。女子大を通り越して、府中街道の方へしばらく行った左手に生田オープンはあったのだが、今や住宅の波である。

『故郷は地球』でジャミラの切り返し、『狙われた街』のダンプの暴走、そのほかにも生田オープンで撮影した作品はかなり多い。川崎市多摩区菅馬場2、3、4丁目と、菅北浦4、5丁目一帯に及んでいたのではないかと思うが、確かめられない。

とにかく広大な地域だったが、「跡形もない」とはこのことで、新宿の副都心の場合など市街地のせいか、それほどの感傷は湧かないが、生田では訪れてみてその変わり様に、何か茫然としてしまった。

山、森林、崖、荒野、田園といった幅広いシーンが撮影できたオープンは、ウルトラにとっても絶好のステージだった。火薬をどうしかけようが、勝手放題だった。円谷プロでは、そこにセットを組むということは少なく、おもに怪獣の追いかけや宇宙人との戦いなどに使用していた。

実相寺監督が『ウルトラマン』で、そのオープンをもっとも多用した作品は、ジャミラの回だ。ジャミラを追う科特隊の連中が山の中を歩くシーンをはじめとして、逃げ惑う村人たちのカットの積み重ね、ラストで十字架を建て、ジャミラに祈りをささげるシーンなど、かなりのシーンを消化している。

あの森も、露と消えてしまった訳だ。ジャミラが出現して、避難しかかった子供が伝書鳩を取りに帰る農家は、生田からさほど遠くない柿生で撮影をした。あの頃は、柿生や鶴川へ行けば、茅葺き農家の撮影などは簡単にできたのだが、それも今は夢である。

茅葺きの家といえば、生田緑地公園の中にある”川崎市立日本民家園“は、市内・県内の古民家を軸にして、野外で復元展示をしている、とても楽しい場所である。当時、飯島敏宏監督の住まいが、その民家園にほど近い所にあった。うららかな日和に恵まれた折には、ふたりで散歩がてら民家園へ足を運び、民家の縁側に日向ぼっこよろしく座っては、ウルトラやテレビ映画の話をしたものである。

あの頃は入場料も取られず、訪れる人もあまりなく、移築された農家の軒先に寝そべっては、怪獣の名前を考えたりしたものだ。昭和41年頃のことである。(注;開園は昭和42年とあるので、正式オープンの前だったのかもしれない)

ジャミラの撮影にはここを使おうと勝手に決めていたのだが、許可にならなかった。そりゃあそうだ。ライトは何台も持ち込むし、スモークは焚くし、火薬ありだし、いくらのんびりしていた時代でも、不許可の決裁は当たり前であろう。情景ねらい程度だったら、よかったのだろうか。

ジャミラの回では、見えない宇宙船による事故のシーンが発端となるのだが、車が夜道で遭遇する事故の件は、生田オープンの山を隔てた反対側の、読売ランドへ通じる坂道で撮影した。そのあたりの環境は、あまり変わっていない。

この事故に遭う車は、監督自前のプリンス・スカイライン1500で、監督自ら運転をしての出演であった。付け加えて書くと、このとき調子に乗って車を溝に脱輪させてしまい、余計なことをしてくれる監督だと、制作部ににらまれてしまったそうである。(おわり)


★★★★★★★★★★★★
ジャミラが森林の中に身を潜めているシーンや口から吐く火炎で茅葺き農家を焼き払う特撮シーンが思い出されるが、それにつながる本編シーンはすべて、このオープンセットで撮ったわけである。本文に書かなかったが、ここは東宝の持ち物なので、東宝映画で使ったオープンロケの残骸が残っていたりもしていたようだ。ゴジラ映画などで地元民の避難シーンがあるが、そのようなシーンもここでみな撮影されたものなのだろう。

CG合成が全盛の現代なら、避難シーンだけスタジオで撮影し、背景映像を別に撮り、二つをコンピュータ合成処理して、避難シーンを作ることも可能だろう。こんなコンピュータ合成作業の方が修整などで融通が利く分何かといいかもしれないが、それでいいのだろうか。演じる側の技術は廃れていくことはないだろうか。

映画のカメラは自分を映してくれているのがよくわかる、とモロボシ・ダン役の森次晃司氏は、テレビカメラとの違いをそう話していた。それが、映画の気持ち良さだとも言った。失敗が許されない一発勝負だから、演者も命を賭けて演じるのではないのか。コンピュータで簡単に直しが利くような映像で良いはずがない。それは映像というメディアの荒廃につながるような気がする。

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実相寺監督と川崎好き [実相寺監督が語るウルトラ2]

相寺昭雄監督は、川崎という町が好きらしい。元々は南部の工場街や、中部あたりに蝟集する(いしゅうする;一か所に多くのものが寄り集まること)町工場のある風景が好きだった。ドラム缶の転がっている空き地というのが、監督にとっての川崎の原風景だった。

テレビのスタジオにいた大昔から、そんな風景に親しんで撮影をしたり、セットに組んだりしていた。「ドラム缶野郎」などと、有り難くない名前で悪口を言われたこともあった。

青春時代は、キャノンカメラの本社に近い、目蒲線(今では多摩川線という盲腸線になってしまった)の「鵜の木(うのき)」に住んでいたのである。『キリがない』『バクたる』というウルトラQの台本を書いたあたりまでは、この鵜の木にいた。

円谷プロ制作作品の『スパイ・平行線の世界』に助監督として入った頃から、川崎北部へ移り住んだのだった。ふり返ってみると、多摩川を軸として生きてきたといえるかもしれない。

さて、そのドラム缶のカットは、ウルトラセブンの『狙われた街』に出てくる。冒頭で、メトロン星人が仕掛ける薬の影響で暴走するタクシーのシーン、それに続く銃撃戦などに片鱗がある。タクシーが暴走するシーンは、川崎の火力発電所に近い、港近くで撮影をした。

千鳥町あたりだろうと思うが、もはや特定はできない。今見返してみると、随分材木が置かれている。これも、自分が好きな風景で撮影をした一例である。

『ウルトラマン』では北部のひなびた場所でしか撮影をしなかったが、『ウルトラセブン』の折は、『狙われた街』と『円盤が来た』の二本で、主な舞台を川崎の中央部あたりに設定していた。『円盤が来た』は溝の口界わいを考えて、実際にずいぶんロケも行っている。

主人公の通う町工場も、高津近辺を想定したもので、撮影もしているが、なぜか借用の都合上、工場内のシーンは対岸の東京側の二子(ふたこ)からちょっと下ったところで撮影をしている。東京側の二子から丸子(まるこ)にかけては、高級住宅街が並んでいるのだが、製作の都合とはいえ、そこで町工場が借用できたのも、面白い話だ。

宇宙人(メトロン星人)がタバコの自動販売機に幻覚剤を仕掛けるシーンは、小田急線向ヶ丘遊園駅前にあった喫茶店から撮影をした。ダンやアンヌ隊員が見張る喫茶店である。駅前のロータリーに面したそれも、今はない。駅前の様子も、ずいぶん変化してしまった。

向ヶ丘遊園も閉園になり、私鉄各線の華でもあった遊園地の閉鎖と同様、街の勢いが陰ってしまった。駅前から出ていた独特のモノレールも営業停止になり、残念なことである。

40年以上も経過すれば、変化するのは当たり前のことだろうが、一度焼き付いた風景の記憶というものは、なかなか風化せず、色あせないものだ。とりわけ、撮影をした場所は、そのままであってほしい、といった勝手なことを空想する。

しかし、東京近郊の通勤圏拡大による開発は、そんな感傷を吹き飛ばしてしまう程の勢いで、止まることは無い。生田オープンあたりもその好例だろう。もう感傷に浸る場所さえ、探さなくては見つからない時代になった。百合ヶ丘と柿生の間にできた新百合ヶ丘が、今や川崎の副都心になろうかという時代になっていた。

昔、電車少年だった頃、小田急の駅名を思えて、和泉多摩川、登戸多摩川(現・登戸)、稲田登戸(現・向ヶ丘遊園)、東生田(現・生田)、西生田(現・読売ランド前)、柿生、鶴川・・・、と暗誦したものであった。西生田から柿生までは駅が無かった(現・百合ヶ丘、新百合ヶ丘を設置)。

たとえ駅を作ったとしても、当時はタヌキくらいしか乗客はいなかった程のひなびた地域だった。まして、多摩センターへの分岐も無かったわけで、最近設定された多摩急行という種別が、向ヶ丘遊園という一大要衝を通過することなど、想像もできなかったことだ。  (おわり)


★★★★★★★★★★★★
監督が鉄道好きであったことに、驚いている。筆者も鉄道少年だった。鉄道が好きな人は、「時刻表」をバイブルとしてよく読む。時刻表にはいろいろな情報が詰まっていて、何時間見ていても飽きないものだ。監督も、時刻表を愛読していたのだろうか。
小田急の向ヶ丘遊園とか、東急電鉄の多摩川園や二子玉川園遊園など、子供の頃に遊びに行った遊園地が閉園になっていくのは、大変寂しい限りである。いずれも怪獣ショーを見に行った記憶しかないが、親はたいへんだったと思うが、「親子のふれあい」にはとても貢献したと思う。時代が変わっても、上演場所が変わっても、このような野外ショーは、親子の絆を深めるのに、きっと役立つと思う。

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実相寺監督と生まれ故郷は「円谷プロ」 [実相寺監督が語るウルトラ2]

(きぬた)にある円谷プロ界わいの風景は、あまり変わっていない。と言いたいところだが、やはり歳月は景観を放ってはおかない。円谷プロ社屋の佇まいが昔のままなので、ちょっと見にはそういった印象を与える。でも時の流れは着実に一木一草にも浸透している。

監督が円谷プロへ通い始めたのは、40年(この書籍を発表当時)にもなろうかと言うほどの昔だが、その折の制作部や文芸部の建物がそっくり残っている。この建物はもともと京都衣装が入っていたものだ。

かの金城哲夫さんや上原正三さんが君臨していた円谷プロの核心であった文芸部があったあたりは、もともと衣装倉庫だったらしい。今やその倉庫を、あふれんばかりの怪獣達やウルトラマン一家が占領している。それだから、往時を偲ぶ縁が色濃く残っているという印象になる。

『時が止まっているようで、うれしいなぁ』などと口にしていたら、満田さんから『そんなことはないよ。ずいぶん変わっているよ。よくみてごらんなさいよ、便所だってきれいになったでしょう』とからかわれてしまった。

確かに建物内部は手入れされ、基本的な構造を除き各部の配置も違っている。外観も近年の発展につれ入口が変わり、変化を遂げている。さらに周辺の家を呑み込んで、円谷プロの本体はかなり大きく翼を伸ばしていたのである。

東京五輪も終わった1964年の11月ごろ、円谷プロでは「ウルトラQ」の撮影に活気があふれていた。この「ウルトラQ」で、実相寺監督は特撮と本編の合体する作品に初めて接したのだった。脚本を書くことで、そのシリーズへ加わった。もっとも結果的に脚本は出来上がったが、撮影には至らなかった。だがこの脚本が縁で、長いお付き合いをさせてもらうことになった。

ちなみに、その脚本の題名は「キリがない」「バクたる」の2本である。「キリがない」の方は準備稿の台本も刷り上がり、ロケハンの段階に進んでいたが、あまりにエンドレスで怪獣が再生するので、費用面で製作中止になったと言われた。今にして思えば残念である。監督は“カネゴン”の中川晴之助さんが予定されていた。

実相寺監督を円谷プロへ出入りさせてくれたのは、英二監督のご長男の円谷 一さんで、TBSテレビ演出部の先輩である。一さんは大の車好きで、セドリックを乗り回していた。『ウルトラマン』の頃には、オペルに愛車を変えていた。一さんは、運転席を照らすスポットライトにドイツ工学の良さを力説し、デザインや角度の心配りに素晴らしいものを感じると言っていた。

『ちょっとしたアイデアって奴は、特撮に通じるものだね』 『どうってことないと思う』と反論すると、『ディテールの機微が解らなくちゃ、特撮物は無理だよ』と大きく鼻を膨らませて、嬉しそうに笑った。

そんな会話が懐かしく思い出される。でも円谷プロへ行くと、そんな会話が過去の遺物ではないと思わせる雰囲気に満ち溢れているから、不思議である。

『ウルトラマン』の頃には、監督は車をオンボロだったヒルマンからプリンス・スカイライン1500に乗り換えていた。友人から中古を譲り受けたものだったが、この車は“ジャミラ”の回に出演している。

“スカイドン”にもちょっと出てくる。“ジャミラ”の時は、監督自ら運転して出演をした。見えない宇宙船の事件が起きる巻頭の部分である。   (つづく)


★★★★★★★★★★★★
なんとなくではあるが、今回はワクワクしている。たぶん、在りし日の「円谷プロ」の様子が書かれているからだろう。在りし日の、と書いたのはすでにご存じのことと思うが、円谷プロダクションはすでにひとり立ちできない会社になってしまっている。ある会社の傘下に入っているということである。英二氏が知ったら、さぞ嘆くことだろう(もっとも天国の英二氏は、何もかもご存じであろうが)。立派な財産である「ウルトラ」が、円谷のものであってそうではない。なんとも悲しいことである。すでに砧の地に、円谷プロダクションはもう無い。

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