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ご他界された方々を偲んで【第九回】 [偲んで]

【ご他界された特撮関係の方々を偲んで】と題して、仮面ライダー1号、2号、そしてV3にご出演されたレギュラー・準レギュラーの俳優さん、ショッカー・ゲルショッカー・デストロン怪人の声を演じた声優さんなどを中心に、ご紹介させていただきます。

【第九回】 
荒木 しげる(あらき しげる)
2012年4月14日没(享年63)

荒木しげる(あらき・しげる)氏は、日本の俳優、ドラマー。フォークグループ「フォー・セインツ」の元メンバー。旧芸名、荒木 茂(読み同じ)。本名は荒木生徳(あらき・いくのり)鹿児島県出水市出身。

男性ファッション誌などでモデルを務め、大学在学中の1968年にカレッジフォークグループ「フォー・セインツ」のドラムスとしてデビュー。グループは、「小さな日記」「希望」「冬物語」などのヒット曲を生み出しました。

レコード会社の移籍に伴い、フォー・クローバースと改名しましたが、1973年に解散。解散後、荒木氏はCMモデルを経て俳優に転向します。1975年、『仮面ライダーストロンガー』に「城茂(じょう・しげる)」役で主演したことをきっかけに「荒木 茂」に改名し、のちに「荒木しげる」へと改名します。

その後、1976年『超神ビビューン』でふたたびヒーロー役を演じた荒木氏は、『特捜最前線』『暴れん坊将軍』では長期にわたってレギュラーで活躍します。2000年にはシングル「失恋日記 / 雨情話」をリリースし、音楽活動を再開していました。

仮面ライダー生誕40周年(2011年)にはライダー関連のイベントに積極的に参加したり、「スナック・どっと混む」(2010年閉店)のマスターも務めて同店を通じファンとの交流などを積極的に行ったりしていましたが、癌の治療によって食が細り、体力が落ちてきたことで体調を崩すことが多くなっていったそうです。

〈人物・エピソード〉
『特捜最前線』共演時代から同い歳の誠直也とは仲が良く、一緒にゴルフに行く仲だったそうです。2007年4月、東京都目黒区議会議員選に立候補した際には誠が応援演説に駆けつけ、その写真が掲載されると、ネット上では「立候補したストロンガーをアカレンジャーが応援演説している」と話題になりました。(笑)

『仮面ライダーアマゾン』の主演・岡崎徹(1976年引退)とは、同じ所属事務所だった時期があったことや同じ九州出身であることから、個人的にも親交がありました。2010年と2012年には、既に芸能界を引退して久しい岡崎を長崎から東京に招いて、共にイベントに参加しています。
・2010年7月のスーパーフェスティバル「特撮アーカイブ」サイン会
・2012年2月の「昭和のヒーロー 荒木しげるvs岡崎徹 トークショー」)

2010年9月、自身のブログで『荒木しげる後援会 強兜倶楽部(ストロンガークラブ)』を発足させることを発表した荒木氏は、死去するまでの間に数度、ファンとの交流会活動を行っています。

『超神ビビューン』でのセリフで、「お前たち妖怪から、日本を守る!」と言わなければいけないと思われるところを、「お前たち妖怪を日本から守る」(内容が真逆)と言っており、あきらかにNGのはずがそのまま放送されており、映像が残っています。信じられないことですが、筆者も映像を確認しました。(第21話「良い子が筆になる?呪いの習字教室」)

『仮面ライダーストロンガー』関連エピソード
俳優業をやり始めて間もないころ、履歴書を持って子供向け番組の主役オーディション会場へ向かった荒木氏は、そこでカメラテストを受けて渡邊亮徳(わたなべ・よしのり:当時の東映テレビ部部長)の目に止まり、『仮面ライダー』『秘密戦隊ゴレンジャー』『正義のシンボル コンドールマン』の中でどれか好きな物を選ぶように言われました。仮面ライダーしか知らなかった荒木氏は、「仮面ライダーをやりたい」と返答。これにより、仮面ライダーストロンガー / 城茂役が誕生したということです。

空手や柔道(初段)、フットボールの経験がある荒木氏が主演に抜擢され、そのアクションを見て、大野剣友会の代表である岡田勝から「初めてとは思えないぐらい勘がいい」と評されていたそうです。

また、宮内洋と同じくノースタントで危険なシーンも全部自分で演じきり、危険なアクションを行う際は、岡田が宮内や藤岡弘を引き合いに出して煽ったそうです。後日、岡田が煽った内容が嘘であったことを荒木氏は明かされ、岡田は「やれ」と言われたものを荒木氏が断らなかったことに感心したと告げると、荒木氏もそれを聞いて感激したそうです。

『ストロンガー』の終了を持って仮面ライダーシリーズが一旦終了した際は、作品に参加できたことに感謝すると同時に、それぞれ活躍していた先輩仮面ライダー俳優たちの姿を見て、ヒーローを卒業することへの寂しさを感じつつ、これを糧として今後を頑張るという新たな心構えを抱いたということです。

〈闘病・死去〉
娘の大学入学式当日の2012年4月2日に都内の病院に入院し、その12日後にアスペルギルス症併発の肺炎のため、都内の病院で逝去されました。享年63

都内の斎場にて葬儀がしめやかに営まれ、会場ではフォー・セインツの「小さな日記」などが流れる中、仕事先関係者やファンなどが告別式に参列しました。通夜には佐々木剛と高杉俊介、横光克彦、フォー・セインツのメンバーが、告別式には藤岡弘、速水亮、誠直也らが参列したとのことです。

改めまして、故人様のご冥福をお祈りいたします(合掌)




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【フォー・セインツについて】
荒木氏が所属した「フォー・セインツ」は1968年から1972年まで活動し、2006年に再結成して今日に至る、日本のフォークグループです。1960年代後半に一世を風靡したフォークソング・グループの草分け的存在であり、高校在学中に5人で結成したこのグループは、1968年にデビュー・シングル「小さな日記」を大ヒットさせました。
しかし、その直後にピアノ担当の加賀一兄(かが・かずえ)が脱退してしまいます。その後、レコード会社の移籍に伴い「フォー・クローバース」と改名すると、日テレ系テレビドラマの主題歌「冬物語」がヒット、しかし残念ながら1973年に解散します。

解散後のメンバーたちのその後はというと、ドラムスの荒木生徳(あらき・いくのり)氏は「荒木しげる」と改名して俳優に転身。ボーカルのダニー石尾は、Jリーグ発足と同時に鹿島アントラーズのホームゲームでスタジアムDJを務めます。加賀一兄は小児科の開業医に転身し、今もご活躍中です。

再結成のきっかけとなったのは、2006年NHK BS-2「BSまるごと日本のフォーク&ロック大全集」で33年ぶりにメンバーが集まったことのようです。その舞台で彼らは「小さな日記」「希望」を披露し、翌年11月にはデビュー40周年を迎えたことをきっかけに、ライブハウスでコンサートを開催します。そして2008年には新曲「この街で」をリリースして、本格的に再結成を果たすのです。
「フォー・クローバース」と改名して再結成したメンバーたちでしたが、2023年4月現在、荒木しげる氏とダニー石尾は他界され、上原徹(メインボーカル・ギター)と志賀正浩(ベース)が現メンバーとして活動中です。

現メンバーの志賀正浩(しが・まさひろ)は活動の傍ら芸能事務所社長でもありますが、なんと1980年代前半にテレビ東京系朝の番組に出演していた無邪気な司会者の「志賀ちゃん」その人だったのです。(筆者もこの番組は知っていたので、とても驚きました) そしてリーダーでメインボーカルの上原徹(うえはら・とおる)は、テレビ・プロデューサーで音楽出版社社長として辣腕をふるっています。

♬希望という名のあなたをたずねて♫ ♬遠い国へとまた汽車にのる♫ という詞で始まる「希望」は、ほとんどの人が(筆者もそうですが)岸洋子の歌唱で知っていると思います。ですが、オリジナルは「フォー・セインツ」の方です。フォー・セインツが1969年(昭和44年)5月1日の発売であるのに対し、岸洋子のそれは1970年4月1日です。
この楽曲はどちらも【作詞;藤田敏雄、作曲;いづみたく】ですが、両者を比較すると3番の詞が違っています(興味ある方は、比較してみてください)。筆者は、フォー・セインツのハモる歌唱の方が好きになりました。

フォー・セインツの「小さな日記」が大ヒットしていた頃、筆者はまだ小学校低学年でしたが、フォー・セインツのことを知り、今回YouTubeでこの歌を聞いたら、聞き覚えがありました。子供心にも、この歌が沁みていたのでしょうか。この「小さな日記」「希望」「冬物語」それに改名して再結成した「フォー・クローバース」が2008年にリリースした「この街で」の4曲は、いずれも心に沁みる良い詞とメロディを持つ楽曲だと筆者は思いました。一度聴いてみてください、お勧めです。




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