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レインボーマン(10) ~「インドの山奥で修業して」という世界を演るにはやっぱり実写だろうということで、はじめましたよ」(企画・プロデューサー/衛藤公彦氏)その1 [レインボーマンこぼれ話2]

数々のヒーロー番組を世に送り出してきた「プロデューサー」を相撲の番付に例えると、東の横綱が東映の故・平山亨氏だとしたら、西の横綱は今回ご登場いただく衛藤公彦氏ではなかろうか。筆者の子供時代に、このご両名ががっぷり四つに組んで、数々のカッコいいヒーロー達をテレビ画面に送りだして下さった。

だが、たいへん残念なことに、衛藤公彦氏がすでに他界されていることをこの記事を書くにあたり知った。他界された日時は不明だが、もし今年(2015年)ご存命であれば、85歳になられるという。ここで衛藤公彦氏が手掛けた番組を紹介しておくと、

「正義を愛する者 月光仮面」「ワイルド7」「愛の戦士 レインボーマン」(以上72年)
「ファイヤーマン」「流星人間ゾーン」「ディズニーぱれーど」「ダイアモンド・アイ」(以上73年)
「電撃!ストラダ5」「破裏拳ポリマー」(以上74年)
「まんが日本昔ばなし」(75年)
「プロレスの星アステカイザー」(76年)

と面白い作品が目白押しであった。立て続けにテレビ放映されていることからも、萬年社のスタッフとして、衛藤氏のプロデユーサーとしての手腕の確かさがよくわかるというものである。テレビアニメの黎明期(63年)に、あの「鉄腕アトム」を手掛けて大ヒットを飛ばした経緯を考えれば、当然の流れではあろうが。

改めて、衛藤公彦氏のご冥福をお祈りいたします。

では、衛藤氏のインタビューをお送りします。


★★★★★★★★★★★★
聞き手;
「川内先生と初めて組まれたのが、『正義を愛する者 月光仮面(72年)』の時ですね」

衛藤氏;
「そうです。『月光仮面』をアニメで作りたいというので、萬年社と宣弘社と電通の3社が呼ばれたんです。それで、「君の所でやる」ということになったんです。川内先生はイエスかノーかの人でしたから、決断が早かったのが良かったようですね。

相手が相手だけに勝ち目がなかったので、タイミングで取ったような所がありますね。決まった時には、「取りましたぁーッ」という感じでしたよ(笑)。あとで報告した時には、社長はビックリしていましたけどね。でも萬年社が子供番組をやるのは『鉄腕アトム』以来のことだったし、これが川内先生とのお付き合いの始まりになったわけですからね」

聞き手;
「川内先生としても久々の子供番組だったわけで、脚本の伊東さんによれば、旧作のイメージを踏襲してほしかったというお気持ちがあったようですが」

衛藤氏;
「(月光仮面は)制作したのがナックという会社で、そのせいか、割ときらびやかなというんですか、そういう感じなりましたね。試写をご覧になられた川内先生からはチェックがいくつか入るんですが、放送スケジュールの関係もあって、すべてを反映させられないこともありました。その辺の調整が難しかったですね」

聞き手;
「次の『レインボーマン』が実写なのは、川内先生が当時のアニメの限界を見てしまったからということは、ありますか?」

衛藤氏;
「いいえ。『レインボーマン』は、最初から実写でやろうということになってましたよ。『インドの山奥で修業して』という世界を演るには、やっぱり実写だろうと」

聞き手;
「『レインボーマン』は、まず川内先生が放送枠を押えてスタートしたとお聞きしましたが」

衛藤氏;
「そうですね。川内先生がNET(現・テレビ朝日)に『今度レインボーマンという作品をやるので、よろしく』と直々に電話されたんです。それで放送枠を決めていただいた後、『萬年社の衛藤を差し向けるから、彼と枠の相談をしてくれ』ということになって、僕が出向いて行くわけです。で、この枠をいくらいくらで買い取らせてくださいという交渉をするわけですね。

以後ボクは、制作費をどうするのかなどのお金の勘定をしてました。内容に関してはいっさい、川内先生が創られていましたからね。制作をどこにしたらいいのかということは、相談にのりました。東宝さんがいいんじゃないですか、と言ったのはボクですが、キャスティングやスタッフの人選は、現場に一任していました」

聞き手;
「衛藤さんの、具体的な関わり方というのは?」

衛藤氏;
「制作費の調達と、スポンサーを決めてからの立ち上がりです。当時、うち(萬年社)のように制作費を負担していた広告代理店は少なかったと思います。その分、リスクは大きくなります。商品化権利販売や番組販売など、いわゆるマーチャンダイジングでその分を回収することになります」

聞き手;
「特撮監督の有川さんが、プロデューサーの野口さんと一緒に『レインボーマン』の延長をお願いするために、川内先生を訪問したことを覚えているとおっしゃっていましたが・・・」

衛藤氏;
「どうでしたかねぇ。でも川内先生には、1年という区切りのいいところで終わりたいという気持ちはあったと思いますよ。もちろん延長ということが決まれば、また新しいストーリーを書いて頂いたでしょうけど。川内先生は忙しい中、何度か現場にもいらしていましたし、かなり熱意をもって取り組んでいらっしゃいましたからね」 

(つづく)

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レインボーマン(11) ~レインボーマンとは違うことをやろうとしたダイヤモンド・アイは、子供には難しかったかもしれないですね(企画・プロデューサー/衛藤公彦氏)その2 [レインボーマンこぼれ話2]

(前回からつづき)
聞き手;
「川内先生が現場にいらしたこともあったんですか?」

衛藤氏;
「ええ、多忙中出来る限り。スタッフとも話されたりしてね。でもね、川内先生が来るとなると現場は大変ですよ。かつて新東宝の『社長シリーズ』や日活の『渡り鳥シリーズ』といった人気シリーズを手掛けられていたこともあって、映画界の人脈も広いでしょう。

だから現場へ行くと、『あっ、先生。その節は大変お世話になりました』というスタッフが次々にやってきて、とても落ち着いてチェックできる状況じゃ無かったですからね(笑)」

聞き手;
「衛藤さんも、当時はこの『レインボーマン』と同時に『ワイルド7』(72年)や『ファイヤーマン』(73年)、『流星人間ゾーン』(73年)を担当されていたわけですよね」

衛藤氏;
「そうです。あの時はものすごく忙しかったですね」

聞き手;
「次の『ダイヤモンド・アイ』も、『レインボーマン』も同じようなやり方で進められたわけですね。こちらはヒーローの変身という要素を排除されたのは、川内先生からの提案ですか?」

衛藤氏;
「そうです。内容的なことはすべて川内先生が決められました」

聞き手;
「以前、川内先生が原作を手がけられた『黄色い手袋X』(66年)という漫画と、いくつか共通の要素が見受けられますが?」

衛藤氏;
「その辺のことは、伊東さんが知っているかもしれませんね」

聞き手;
「そうですか。それは伊東さんにお聞きしてみます。その伊東さんが『レインボーマン』と違うことをやろうとして、『ダイヤモンド・アイ』はやや難しくなりすぎたかもしれない、とおっしゃっていたのですが」

衛藤氏;
「そういう所はあるかもしれませんね。すっきりとした懲悪対象にはなっていない部分もあるでしょう。子供だましには作ってないし、非常にしっかりとした作品になっていると思うんですが、ちょっと子供には難しかったかもしれないですね。

前世魔人をいろいろ出して、僕らも必死にアピールしたつもりですけどね(笑)。だからこの作品も1年間続いていれば、もっと面白い展開ができただろうと思っているんですよ」

聞き手;
「ダイヤモンド・アイや前世魔人はすべて着ぐるみを製作していますが、予算的に『レインボーマン』より増えたということはありますか?」

衛藤氏;
「いいえ、あまり変わっていないと思いますよ。東宝の担当も、野口さんから山本悦夫さんに代わりましたし」

聞き手;
「この次に川内先生と組まれたのが、『まんが日本昔ばなし』ですね」

衛藤氏;
「この作品はテレビ用ではなく、大手企業に協賛してもらい、航空会社の代理店を通じて東南アジアの各政府に寄贈しようという川内先生の考えで、始まったものです。パイロット版として制作した『六地蔵』が良い出来だったので、スタートしました。でも最終的には、川内先生の鶴のひと声で決まったんですけどね。何もかも。

この作品をやることになった時、制作は手塚治虫さんのところが良いと川内先生がおっしゃったので、手塚さんに相談しに行ったんです。若いスタッフでやった方がいいと、手塚さんからその時アドバイスを受けました。それで紹介して頂いたのが、グループタックでした。

タックには音響監督の田代敦巳さんや杉井ギサブローさんがいまして、彼らの若い感性が生かせることに期待しました。『昔ばなし』というのは、結構残酷な描写も多いでしょう。そういう部分を彼らがどう上手く処理するか、ということもひとつのポイントになっていました」

聞き手;
「川内先生もしばらくこうした子供番組から遠ざかられていますが、もう一度作品を創りたいというお気持ちは?」

衛藤氏;
「それはありますよ。川内先生の作詞を読むと、非常に浪漫主義者であるが分かります。川内先生の原作に限らず、そういう作品を創ってみたいですね」 

(おわり)


★★★★★★★★★★★★
このインタビューを録った(2002年)頃なら、衛藤公彦氏も川内康範先生(2008年逝去)もまだお元気でいらしたことと思うが、たいへん残念なことに、おふたりともすでに天界へ召されてしまわれた。

『まんが日本昔ばなし』のような高品質の子供向け番組は、レギュラー放送が一旦終了しても、スペシャル番組や再放送がされており、「幼いころの思い出が詰まった番組、後世に残すべき作品」などの意見が多く、「子供と一緒に見たい、安心して見ていられる番組」として常に人気が高い作品であるという。

こういった作品を手掛けることができたおふたりにとって、作品冥利に尽きるであろう。一つ残念なことがある。この『まんが日本昔ばなし』も制作した萬年社が、すでに倒産していたことが判った。

萬年社は大阪に本社を構えていた日本最古の広告代理店であったが、広告代理店業界の栄枯盛衰は激しく、1999年に109年に渡る長い歴史に幕を下ろしていた。衛藤氏はすでに萬年社を定年退職していたが、萬年社の倒産直後に元萬年社が持つ古い版権を扱うことを主目的にした会社「エム・シー・シー」を立ち上げている。

これにより、旧萬年社の諸作品の散逸は一応防がれたのであった。衛藤氏が他界されたあとは、エム・シー・シー社創立に共に尽力されたY氏が、衛藤氏の意志を継いで頑張っておられるという。

追伸として、ひとつ大きな驚きを見つけた。レインボーマンの主題歌他を作曲した北原じゅん氏は、川内康範先生の甥であります。

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レインボーマン(12) ~一所懸命さっていうのは技術を超えるのよ、テクニックより(監督/六鹿英雄氏)その1 [レインボーマンこぼれ話2]

大変残念であるが、六鹿(ろくしか)氏は2004年11月に他界されているようである。詳細は不明。
この記事は2002年当時インタビューしたものである。

改めまして、ご冥福をお祈りいたします。(合掌)


聞き手;
「レインボーマン」は東宝から、「ワイルド7」はタキコーポレーションから、DVDボックスが発売されて、いずれも売れ行きは好調とのことですが、六鹿さん的に感慨みたいなものはありますか?」

六鹿氏;
「懐かしいね」

聞き手;
「ワイルド7は、テレビアニメにもなるそうですが」

六鹿氏;
「アニメーションは迫力が無いね。やっぱり実写でやるからいいんであって。それにCGも使わない。ワイルド7の映画化の話があるけど、CGを使ったら面白いという話もあるんだけど、僕はね、反対なんだよ。望月さん(原作者)も使ってほしくないって」

聞き手;
「『ワイルド7』が終わってすぐ、『レインボーマン』で監督されたんですよね」

六鹿氏;
「そうですね。ちょうど『ワイルド7』(72年)がスタートする直前に『レインボーマン』も始まったんで、最初から『ワイルド7』はどうしてもやりたかったんでね。それで『レインボーマン』の立ち上げが終わってすぐ『ワイルド7』の方に行って。途中第七話か八話か、その辺からやってると思うんですよ(第10話から参加)。

で、それが終わって『レインボーマン』に戻って、そのあと『ダイヤモンド・アイ』をやったのかな。あの頃は忙しくってね。これは自慢できる話じゃないんだけど、1日で200カット以上撮ったことがあるんですよ(苦笑)。それが朝8時出発のロケで夕方の6時まで。俳優さんのスケジュールをぬわなければならないので、とにかく何も言うな、一切聞くなと。もうスクリプターも何もわからない。

お話だけは頭に入っていたけれども・・・200カットですからね。『用意スタート!』かけて一回テストやって本番やったってね、400~500回は声を出すわけでしょう。もう終わったら声出なかったね。20代だったからできたけど、今じゃとても考えられない(笑)。それが『ワイルド7』だったか『レインボーマン』だったか、どっちかは忘れたけど」

聞き手;
「六鹿さんの作品は、1カット1カット尋常じゃないこだわりを感じるんですが」

六鹿氏;
「どっちかっていえば、要所要所なんだろうけど、結構流すところは流したんだけど、細かい所は細かかったね」

聞き手;
「とりわけ、『ワイルド7』は凝りに凝った印象を受けましたが」

六鹿氏;
「うん、だから当時始末書書きましたよ。フィルムオーバーするしね、みんな書いたんじゃないかな(苦笑)。国際放映は良い会社だったからね、始末書だけで済んだけど。制作費がね、1話やる毎に何百万も赤字だったのよ。だからね、もうギブアップ。ブラジルロケまで予定してたんだけど。最後は結構視聴率が20パーセント台まで行ってね。

当時はビデオ無いでしょう。だから自分で撮った作品ていうのは初号試写、あれでしか見られないわけですよ。いや、放送がある訳だけど夜の7時台だから。そんな時間に家に帰らないでしょ(苦笑)。だから自分の作品でテレビで観たものが無いんですよ。ボクもLDとかDVDとか頂いたけど、まさか2次使用3次使用でこんなになるなんて、夢にも思わなかった」

聞き手;
「観る方も必死でしたよ。『いつまた再放送で観られるかわからない』、命がけでテレビの前に陣取ってましたね」

六鹿氏;
「そういう意味では、観る側も創る側も緊張感がありましたね。当時映画が斜陽になってテレビの時代になって。ビデオでなくフィルムだったわけで。“テレビ映画”という時代でね。撮影所は国際放映だったんですよ。あそこは元々新東宝なんですよ。あの当時は朝行くとね、ロケバスがごちゃごちゃしてて・・・よく乗るバスを間違えた記憶があるよ(笑)。

それでね、しばらくして、音声が同録(同時録音のこと)になったんですよ。同録が入って、まだアフレコがあったんだけどね。セットがあってね、大きいセットだから半分に仕切って、こっちが何の分、こっちが何の分、ってやってるわけ。で、こっちが本番いく時は、隣は静かにしてなきゃならないの」 

(つづく)


★★★★★★★★★★★★
レインボーマンは1972年末頃の放映だから、撮影は70年くらいからやっていたんじゃないだろうか。その頃のスタジオ風景がよくわかる内容の話で、とても面白かったと思う。隣で本番やってる時は、もう片方では静かに待機しているなんて信じられないアナログ的作業だけど、こうやって先人はすこしでも面白いドラマを作ろうと必死だったわけだ。

だから観る方の僕らも、見逃さないように必死で観ていた。そうそう、テープレコーダー(もちろんカセットテープではない)はあったから音声を録音したことがあったけど、マイクで音を拾うから、誰かが声を出すともう大変、『シーッ』ってやって黙らしたっけ(笑)

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レインボーマン(13) ~一所懸命さっていうのは技術を超えるのよ、テクニックより(監督/六鹿英雄氏)その2 [レインボーマンこぼれ話2]

(前回から続き)
聞き手;
「東映でも、わざわざ日活のスタジオを借りてアフレコしていたそうですからね」

六鹿氏;
「そうそう、仮設スタジオ。それがいっぱいあってね、一番賑やかな時で20組くらい入っていたんじゃないかな。あの頃はどこもすごい活気がありましたね」

聞き手;
「それにしても、当時の俳優陣はみなさん芸達者でしたね。『レインボーマン』にしろ『ダイヤモンド・アイ』にしろ、セリフがアフレコとは思えないくらい臨場感に満ちていますが」

六鹿氏;
「僕はアフレコとかダビングが嫌いでね。でもしょうがない、仕上げだから。で、今はダビングなんかも簡単でしょう。当時はね、けっこうダビングは時間がかかったわけね。あの頃30分もの二本で、1本は確実に一日掛かりだったね。そういう時代でしたよ。だからアフレコは嫌いだったけど、とにかく気合を入れてやるしかないわけね。で、気合を入れてやると合わないんだよ、口が。そうするとボクせっかちだからイライラしちゃって。だからその場でセリフ自体を変えちゃってましたね」

聞き手;
「セリフを変える際には、伊東さんとミーティングはされたんですか?」

六鹿氏;
「いやいや、そういうのは特別に無いね。変えるんなら、もう直接変えちゃうってことで。今でも伊東さんとは交流ありますけどね。彼は人間的にできた人だったから、一切文句言わないんですよ」

聞き手;
「伊東さんによれば、『レインボーマン』のホンは川内先生から直接サジェスチョン(示唆、提案)を受けていたと」

六鹿氏;
「そうそう。やっぱり川内先生の言う通りに書いていた。で、僕はそれをぐちゃぐちゃにしちゃったという(笑) ぐちゃぐちゃにというのは言い方が悪いんだけれども、良い作品を創るためにはこうした方がいい、ということでね。僕なりのひとつの哲学で変えたんですけどね。それを川内先生にも、そうハッキリ申し上げた。そういう面で恒に反抗児だった。でも、先生には可愛がってもらったね」

聞き手;
「『レインボーマン』のお話は、国際放映から来たんですか?」

六鹿氏;
「そうそう、国際放映からだね。あれ、東宝の作品なんでしょ。国際放映でみんなやってたんですよ。国際放映と東宝っていうのは、兄弟みたいな会社だったんですよ。『レインボーマン』は最初、助監督で関わったの、チーフでね。それ以前に監督で何本か撮っていたから、いまさら助監督なんてイヤだって言ったの。若かったんだねぇ。

そうしたら、川内先生が、六ちゃん(六鹿氏のこと)やってくれ。その代り2クール目から監督やってもらうからって言うんで。ゴネたけど、まぁしょうがないからっていうレベルですよ。それまでは、30分モノっていうのは知らないし。僕はデビュー作が1時間の探偵ドラマで、以降ずっと1時間ものばかり撮ってたからね。30分ものは初めてだった。最初は戸惑いましたけどね」

(つづく)


★★★★★★★★★★★★
六鹿氏は大学卒業後、国際放映に入社。助監督としてドラマを中心に活躍されていた。その後監督としてデビューするが、助監督時代から脚本家としての顔も持っていた。松方弘樹主演の1時間の探偵もの『事件とあいつ』(68年)でデビューした。当時は今とは違い、脚本家のポジショニングは低かったらしい。今の脚本家なら一行一句変えては駄目という人もいるらしいが、六鹿氏にすればとんでもない話で、良いドラマを創るためには脚本どおりっていうのはまず無かったという。映画最盛時代では、監督と脚本家が良いものを創るために真剣にぶつかり合ったそうだが、テレビ時代に移り、監督と脚本家がぶつかり合うほどのことは無くなったという。脚本家に比べて監督側の力量が、成熟されていないかららしい。

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レインボーマン(14) ~一所懸命さっていうのは技術を超えるのよ、テクニックより(監督/六鹿英雄氏)その3 [レインボーマンこぼれ話2]

(前回から続き)
聞き手;
「変身ものというのも、初めてだったんですよね」

六鹿氏;
「そう、『レインボーマン』は変身・・・だから、『ワイルド7』は変身ものの流れの中で、ある意味じゃ新しい企画だったのね。でもあれはね、今観ると、とても子供を対象に撮って無かったね。あんなハードな展開で・・・、今だったらきっと通らないと思う。まぁ良き時代というのかな。

『レインボーマン』なんか、今観てもあの頃の川内先生がさすがだなと思うのは、30年先を見てるんだよね。今の時代に、あの時の話がみんな本当になってるわけでしょう? ニセ札事件とか・・・そういった組織なんかも。だからね、やっぱりそういう先見性っていうのかな、それは凄いなぁと思ったね。

『ワイルド7』も、ああいう秘密結社っていうのは当時は絵空事だったけど、今は実際にあるものね。それは結構恐ろしいなぁ、と。当時は『そんなの本当にあるのかな』ということでやってたけれどもね。だから今見ても、“古い”っていう意識は無いと思う」

聞き手;
「新しい試みがいくつもありましたよね。今のテレビドラマみたいに、どれを見ても代わり映えがしないなんてことがない」

六鹿氏;
「それは確かにあるんですよ。こういう言い方は語弊があるかもしれないけど、今のテレビ番組作り、ドラマ作りってのは作業になってるの、ひとつの流れの。だから手作りじゃないよ。当時はみんな必死になって、テレビは始まったばかりだったから最善の力を尽くして。アナログなんだけれども、みんなね、一生懸命。

それでみんなが集まって、初号なんかを見るわけ、最初の試写。今そういうの、無いでしょう。何か知らないうちに終わっちゃった、という。MA(*)にしろ、何にしろ。
(*)出来上がった映像にナレーションや効果音、音楽を付けたりして、映像がより効果的になるようにする工程を指す

だからみんなでやったというのが稀薄なわけ。この頃はね、小道具さん衣装部さん、それからメーキャップさん、今はスタイリストとか横文字になったけども、そういう大道具さんに装飾部・・・もうすべてのスタッフが創ってる、関わってる。彼らは全部その初号試写を一緒に観てたわけですよ。

で、その度に『あ、俺の小道具はああいう風に使われたのか』『俺が作った装飾装置はこうなったのか』と、彼等なりに確認をするわけ。これは監督が創るものじゃ無くて、僕は仕掛けの一員で、みんなで創るわけ。黒澤(明)さんなんかもそうでしょう? だから当時は“組”なんですよ。そういう熱気っていうのかな、みんなで協力して同じ目的でひとつのものに取り組む。その姿勢が何か伝わったんじゃないかな」 

 (つづく)


★★★★★★★★★★★★
この文章を読んでいるだけで、当時の特撮ドラマを作るスタッフたちの心意気が、十二分に伝わってくる。みんな初めてだから手探りながらも必至だし、仕事に取り組む姿勢だけは誰にも負けないものを持っているという感じがわかる。やりっ放しではなく、自分の仕事がどういう風に映像に関わったのかを知ることは大事なことで、それが明日の仕事につながるのだ。

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