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レインボーマン(1) ~ゴッドイグアナは演じた魔女や女王のイロハのイ [レインボーマンこぼれ話1]

川内康範先生の3大ヒーローの端を切って70年代前半に登場した、筆者の一番好きなヒーローであるレインボーマン。魅力は何と言っても、本体のダッシュ7と6人の化身たちであろう。そして死ね死ね団とその仲間の魔女。イグアナとゴッドイグアナも、存在感がある。今回は、ゴッドイグアナ役の曽我町子氏に話を聞く。

ところで曽我町子氏と言えば、筆者は真っ先に『お化けのQ太郎』が思い出される。オバQ音頭のソノシートが、今もあるかもしれない。今のオバQは三代目位の声優さんではなかろうか。残念なことに、2005年に他界されている。プロ意識が高く、仕事に対する姿勢は非常に厳しかったという。

台本・衣装等でスタッフが手を抜いたと思ったらすぐに注意を促し、用意された衣装に納得がいかないと自前で用意する程であったという。仕事に対する厳しさの反面、生来明るい性格である曽我氏は、他の共演者達には新人・ベテランの区別なくよく声をかけ、積極的にコミュニケーションを取っていたという。

曽我氏が亡くなった日、メディアは「初代オバQの声優が亡くなった」と広く報じて、曽我氏のお店「ステラ」のウェブサイトには、何万件ものファンの追悼コメントが寄せられたという。
数多くの敵の魔女役をやった曽我町子氏。その原点がゴッドイグアナであった。


聞き手;
「愛の戦士レインボーマンに出演される経緯について・・・」

曽我氏;
「塩沢とき(故人)さんがやっていた魔女・イグアナが復活する予定だったんだけど、都合で塩沢さんからお断りが入ったらしくて。それでうちの事務所に連絡があって、その魔女を私に演ってもらえないかって。私はその頃、何でもかんでも『オバQみたいに』っていう注文に、ちょっと悩んでいた時期だったのね。

だって役者なんだから、いろんな役を自由に自分にしか出来ない表現で演ってみたいじゃない?でね、そこに来たのがこの役。『こういう役だけど、どう?』って。脚本見たら何か自由に演れそうだなと思って。全く演ったことの無いキャラクターだったし、そこに惹かれて引き受けたと思う。で、『私ならもっと面白く演れるんだけど』って思ったの。私は喜劇役者なんだね、面白さばかり追求してたんだよね、何故だか」

聞き手;
「魔女イグアナ(塩沢さん)を参考にされたりしましたか?」

曽我氏;
「いえ、観なかったの。普通は前の役を繋ぐ形で入ると観せられるものなんだけど、私は断ったの。『私のゴッドイグアナ』に徹しようと思って。やっぱり観ると引きずられちゃったりするから、観るのよそうって。最初にホン(脚本)を読んだ時の自分のイメージ、死ね死ね団の突拍子もない感じで行きたかったから。

でもね、カツラから何から皆、ときさんが使ってたやつでね、これはちょ~~っとね~~(苦笑)。やっぱり私、役を創りたいわけ、キチッと自分で。だからそのあと演ったキャラクターは、メイクなんかも自分で全部作ってるの」

聞き手;
「ゴッドイグアナの役づくりを具体的に・・・」

曽我氏;
「最初に演技プランを提出したの、私のゴッドイグアナを理解してもらおうと思って。例えばしゃべりは、シェイクスピアの、どの作品のどの場面のような感じでオーバーに演りたいとか、事細かに書いてね。監督には笑われちゃったんだけど、『気持ちはわかったよ、こっちも撮るときはそういうことを意識して撮るから、そういう形で行こう』って言ってくれてね。

自分の演技が自由にできると思ったら、すごく気持ちが楽になってね。それから、まずは自分がエンジョイすることにしたの。自分が楽しければ、観る人も楽しいはずだ・・・と(笑)。これがあとあとにつながるポイントになったのね。デンジマンのへドリアン女王の時も、ジュウレンジャーの魔女バンドーラにしても、とにかく自分自身がうーんと楽しんで演ったの」 

(つづく)


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
先にレインボーマンの魅力は、ダッシュ7と6人の化身たちだと書いたが、筆者は、特にダッシュ6が好きである。番組を見ていた当時(子供の頃)は、ダッシュ5が好きだった。ダッシュ4もカッコイイ。一番好き嫌いだったのが、ダッシュ6だった。だってカッコよくないでしょ(笑)。でも大人になってからは、見方が変わるもんだ。

攻撃にも防御にも、地底ほど都合のいい場所は無い。『地球人は、地底は無防備だ』といったのはゴース星人だが、全くその通りで、とにかく地底は攻撃されにくく(安全)、相手にとっては攻撃しづらい(不得手)場所、そこを自由自在に動けるダッシュ6は、すごい能力なのである。

また意外だったのは、制作会社が東宝であることだ。この手の作品はみな東映だとばかり思っていたが、川内康範三部作のふたつが東宝、残りコンドールマンだけが東映である。コンドールマンの回で平山亨氏が出てくるのは、そのためである。

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レインボーマン(2) ~ゴッドイグアナは演じた魔女や女王のイロハのイ [レインボーマンこぼれ話1]

曽我町子氏はプロ意識が高く、いつも仕事に取り組む姿勢は誰よりも厳しい方だったというだけあって、仕事に関するエピソードは面白いものが多い。

(前回からのつづき)
司会;
「共演者の方がたとのエピソードがありましたら・・・」

曽我氏;
「与えられた役をばっちりこなそうと意気込んでいたから、誰かの印象とかはあまり残ってないのよ(微笑)。それにね、他の人達と絡むことがホントに無かったんですよ。レインボーマンとの絡みは多いんだけど。ただ平田(昭彦)さんがいい人でね。ゴッドイグアナがバーッと老婆になるシーンがあるでしょう。

あの老婆のメイクすると、気が滅入るのね。ホントに老人になっちゃったような気分になって、普段のしゃべり方までボソボソと。もう、メイクによってキャラクターが変わっちゃうから(笑)。で、スタジオの隅でショボくれてた感じだったから、平田さんが気を遣ってくれたみたいでね、一所懸命しゃべって下さるの。

どっちかっていうと私が一方的にしゃべるタイプで、平田さんは無口な方なんだけどね。だからそれがすごく印象に残ってる」

司会;
曽我さんは独特なキャラクターを多数演じていらっしゃいますが、他に印象的なキャラクターや撮影中のエピソードがございましたら・・・」

曽我氏;
「時空戦士スピルバン(86年)の女王パンドラかな。私はどんな役の時もそうなんだけど、一番最初が肝心だから、『この線』ってきめちゃって、途中からキャラクターをあんまり変えないタイプなんです。人の意見は聞くけども、人に言われてコロコロ変えていたら、観てる方も大変でしょ?だから変えるにしても、徐々に変えていくとかね。

ただパンドラの時。近所の子供たちがね、けっこう観ててくれててね。それまでは私が歩いて道で会うと、『うわぁ~、へドリアン女王だ、逃げろ~!』とか言って、クモの子散らすように逃げていったのね。それが『わ~、パンドラ。今度は怖くないぞ!』って言うの。『何で?』って聞いたら、『だって笑ってるもん』って。

それで私は、『あなた達ね、笑って悪いことするのが、一番怖いんだよ』って。でも子供にはわからなかったのね。どんなに凄んだ目をして演っても、普通に『笑ってる』って受け止めちゃうのね。それに気づいて、これじゃいけないなと笑い方を研究してね。途中で変えないというポリシーを曲げて、徐々に変えていったの。

だからパンドラは、最初は貴婦人風に『オホホホ』といって感じの笑いだったんだけど、途中から『ゥアハハハハ!』という出るような感じの笑いにして行ってね。それからは段々子供たちの反応も変わってきたんだけど、『笑い』というのは難しい、怖いものだなと思いました。

あと飯塚昭三さん(デスゼロウ将軍の声)との掛け合い。飯塚さんと組むようになって、好きなようにアドリブ入れようヨって。テストでウケたら本番にも活かしていこうって。本当はぶっつけ本番でやった方が面白いんだけど、いきなりやっちゃうと他の人達が面喰らっちゃうからってことで。最初は、アドリブぶつけてくれたら私がノルから、飯塚さんよろしくねってことで始めたの。

そしたらお互いノっちゃったのよ(微笑)。先手を取ろうと張り切っちゃってね(笑)、どんどん息が合ってきて面白かったわよ~。あとへドリアン女王の時は、ベーダー側の役者にまとまりがあってよかったわ。まとまるように自分で仕切っていたということもあるんだけど、ミラー(美川利恵)ちゃん、ケラー(湖条千秋)ちゃんの相談にのったりしてたし。

ミラーちゃんはネコ抱えてうちに遊びに来るしね。でもそのあとの『太陽戦隊サンバルカン(81年)』になると、女の子が5人になっちゃったもんだからもう大変で(苦笑)。相談事が2倍以上でしょう、単純にいえば。だから途中から入ってきた賀川雪絵(アマゾンキラー)ちゃんに『この子たち仕切って、お願い』って任せちゃって。そしたら、『あんた達!』なんて、アネゴ肌でまとめてくれたから助かっちゃったの(笑)」

司会;
「曽我さんにとって、ゴッドイグアナ役はどのような存在ですか?」

曽我氏;
「そうね、ゴッドイグアナは・・・私が演じてきた魔女とか女王といったキャラクター達のいろはのいの字なのね、のちの『5年3組魔法組(76年)』の魔女ベルバラ、ヘドリアン女王、女王パンドラ、魔女バンドーラへとつながっていく。それにさっき(前回)話したけど、役者としての壁を乗り越えるきっかけになったキャラクターでもある訳だから」

(終わり)


★★★★★★★★★★★★

ゴッドイグアナの娘・イグアナ役の塩沢とき氏が再登場を断った理由を、『老婆のメイクをすると気が滅入ってしまうので、あのメイクはもうしたくないから』という風に何かで聞いた記憶がある。曽我町子氏も同様のことを述べていることからも、あの役になりきることの大変さがうかがえる。

レインボーマンは、当時子供番組でありながらも有名俳優陣をキャストに迎えて、あとあと名が残る番組になったことは、たいへんうれしいことである。それにしても、このおふたりとも若くして鬼籍に入ってしまわれたことは、まことに残念である。

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レインボーマン(3) ~あんな悠長な弱点を持つヒーロー、いないんじゃない?(脚本家;伊東恒久氏) [レインボーマンこぼれ話1]

今回は、川内康範先生の愛の戦士3部作のすべての脚本に携わった伊東恒久氏に、その第一弾である『レインボーマン』について語っているところをご紹介します。

伊東氏は、1967年『キャプテンウルトラ』がデビュー作である(鈴木良武氏との共作)。その後は竜の子プロなどで、アニメの脚本をメインに仕事をしていくことになる。

『昆虫物語 みなしごハッチ』を経て、『巨人の星』、『アタックNo.1』など、いわゆるスポ根もののアニメの仕事が続き、72年の『正義を愛する者 月光仮面』で、川内康範氏と出会う。

しかしながら、この『月光仮面』は視聴率的には苦戦して、結果として良い出来ではなかったようだが、この時の仕事ぶりを評価してくれて、『レインボーマン』でふたたび呼んでくれたのではないか、と伊東氏は思っているという。

『川内先生は作家として大先輩だし、そういうお付き合いをさせてもらっていました。人脈が広い方だったけど、政治的なことはよくわからないので、一切関わらなかった』とも述べている。では、伊東恒久氏の話をどうぞ。


聞き手;
「『レインボーマン』は、すでに企画書の段階で、脚本は伊東さんということになってますね」

伊東氏;
「僕は結構最初の段階から関わっていたんですよ。当時、川内先生の事務所がホテルニュージャパンにあったんだけど、そこに別に部屋を取ってもらったんです。当時僕は夜型の生活をしていたので、朝の10時に来てくれと言われると、かなりキツかった。当時もここ(埼玉上尾市)に住んでいたからね。あるとき、先生を2時間位待たせたことがあった。

その時はもう、怒るのを通り越していたらしく、笑ってましたよ(笑) 僕は自宅に電話を入れるのも遅れていて、近所のお宅からかけたり、呼び出しにしてもらったりしていたんです。緊急の時なんか、夜中でも電報が来るんですよ、『電話くれ』ってね。企画書も僕が書いたのかな。川内先生は、政治の方とかもいろいろと忙しいお方だから。

でも(近くに部屋を取ったおかげで)すぐ近くに僕がいるから、ちょっと手の空いたときとか、すぐ打ち合わせが出来る。番組の主旨などは先生が書いてくれたけど、そのほかの細かい設定とかは僕が書いたと思う。もちろん、ふたりで相談しながらだけどね。

聞き手;
「では、月の化身をはじめその他は、伊東さんのアイデアなんですか?」

伊東氏;
「7変化というアイデアは、先生がずっと温めていたみたいだね。『七色仮面(59年)』ってあったでしょう?それが発想の基になっているようだけど、今回は全く違った形でやろうと。それから、太陽の化身はレインボーフラッシュが決め技とか、土の化身は疾風土煙火の術とか、超能力や個性を肉付けしていったわけです。

当時、変身ものが流行っていたことも影響していると思いますね。川内先生は違う人と会っている時も、アイデアが浮かぶとボクを呼ぶんですよ。『こういうの、どうかな?』ってね。最初の1クール分ぐらいのお話は、準備稿みたいな形でふたりでパーッと創っちゃった。制作が正式に決まってから、それをもう一度練り直したんですよ。

やはりキャストとかいろいろな要素が入ると、変わってしまう部分があるからね。番組がスタートしてからも、週の半分くらいは都内に泊まり込んでたんじゃなかったかな」

聞き手;
「ホテルニュージャパンにですか?」

伊東氏;
「いや。その頃は東宝の野口さんというプロデューサーが取ってくれたホテルや旅館。祖師谷大蔵に、よく映画関係者が使っていた旅館があったんだけど、そこも使ったことありますよ。作品が終わるまで、そんな生活だったね。たまに家に帰るときも、野口さんが一緒に付いて来たりね(笑) そのまま泊まったりしたこともあった。

ホント、どっぷりと浸かってましたよ。あの時は、この作品しかやってないんじゃないかなぁ。こんな生活してたら、他の作品はやれないよね(笑)」

聞き手;
「シナリオの執筆作業は、どのように進められていたんですか?」

伊東氏;
「僕と先生とで、1クール分ぐらいのプロットを創って、『じゃあ、これでいこう』というものが出来ると、それを僕とプロデューサーとで持ち返ってね、どのようにエピソードを分割するかを決めて、ライターに割り振っていくというのが大まかな流れだったな。

番組が軌道に乗ると、川内先生はある方向性だけを決めて、あとは任せてくれましたけどね。何か問題が起こったら俺が引き受けるから、とにかく君は、面白いものを書くことだけ考えればいいって」

聞き手;
「当時、1クール単位でストーリーを進めるという形は、珍しかったと思いますが」

伊東氏;
「やはり、テーマというものが第一にあったからでしょう。経済が戦争を起こすんだ、とかね。僕らもそう言われてはじめて、『そういうことか』と分かった所もあった」

聞き手;
「そういう視点を、はじめて子供番組に持ち込んだわけですね」

伊東氏;
「おそらく、一般のドラマでもやってないんじゃないかな」

(づづく)

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レインボーマン(4) ~あんな悠長な弱点を持つヒーロー、いないんじゃない?(脚本家;伊東恒久氏) [レインボーマンこぼれ話1]

(前回からのつづき)
聞き手;
「この番組を見て、物価高騰ということがどういう仕組みで起こるか、わかったという記憶があります」

伊東氏;
「そうなんだよね。インフレが起こる仕組みなんかをドラマの形でやっていたわけでしょう。昨日は千円で買えた物が今日は五千円じゃなきゃ買えないとかね。子供番組だから誇張して描いてはいますけど、その根本にあるのは大人社会の論理、経済原理ですよ。

それを見せていくには、やはり1話完結では無理なんだ。こういう原因があって、こういうことが起こる。主人公の目を通して、庶民の生活がどう変わっていくのかということを物語として描くには、1話完結じゃ無理なんですよ」

聞き手;
「『レインボーマン』というと、アンパンが2個で千円になるというシーンが、忘れられないんですよ。千円なんて当時の僕らには、夢のような金額でしたから」

伊東氏;
「(笑)そういうことなんですよ。当時アンパンなんて、1個数十円とかでしょ。ほら、インフレなんて言うと難しいけど、そういうことなんだってやれば、分かり易いじゃない?子供だけじゃなくてね、子供と一緒に見ている大人も、一緒に考えてくれればいいなと思っていた」

聞き手;
「ところで、登場する怪人は、どなたが考案されていたのでしょうか?」

伊東氏;
「基本的にはボクだね。シナリオの段階で、『大体こんな感じ』というものを考えてはいるんだけれど、製作が進むとデザインも間に合わない。だからプロデューサーと二人で高架下にある西銀座デパートへ行って、そこで売っていたお面を買ってきて、ちょっと細工して使うなどの工夫もしてましたよ。

予算の関係もあって、全身着ぐるみというのは無理だったからね。でもそういう形で統一したから、それはそれで味が出たんじゃないかな」

聞き手;
「この番組の魅力でもある7つの化身というのは、書く方からすると、どこでどう登場させるかとか、配分とか、ご苦労されたと思うのですが?」

伊東氏;
「その辺は上手く割り振っていたつもりですよ。前回は火、水だったから、次は木、金を出してくれとかね。それはライターにお願いしていました。だんだん向こうもコツが判ってきたというか、こっちが言わなくても出してくれるようになりました」

聞き手;
「調べてみると、割と土の化身の出番が多いんですよね」

伊東氏;
「やってることは地味だけどね。ほら、ヨガの眠りが近づくと、どうしてもどこかに逃げて隠れたりしなきゃならないから、それで出番が多くなったのかもしれない。あのヨガの眠りという設定も、ユニークだよね。こういうヒーローものの場合、超能力以上に弱点というものを上手く創らないといけないんだよ。ウルトラマンだって、そうでしょ?」

聞き手;
「寝てしまうというのが、斬新でしたよね」

伊東氏;
「エネルギーを充てんするという意味では、理屈の合っていたと思うけどね」

聞き手;
「5時間という時間も、非常に微妙で」

伊東氏;
「そうそう。あんな悠長な弱点を持ったヒーローもいないんじゃない?(笑)」

聞き手;
「そのたびに、真っ白く塗られる水谷(邦久)さんもたいへんだったと思いますけど」

伊東氏;
「あればかりは、流用が利かないからね。だから、さすがに毎回は出来なかった」

聞き手;
「あと、レインボーマンが大臣に直訴に行くという場面も、鮮烈でした」

伊東氏;
「あの辺はやはり、川内先生の生き方が現れていると思う。『憂国(*1)の士』みたいなとこがあるでしょう?しかも、在野(*2)から物を言うから、強いんだ。『俺は無頼の一介の浪人だから』と」
(*1)ゆうこく;国家の危機を心配すること
(*2)ざいや;官職ではなく、民間の立場にいること

聞き手;
「人々の暴動を前にして、レインボーマンが全く無力だというのが凄いと思うんです。普通なら、何か凄い力を見せたりしそうなものですが」

伊東氏;
「その辺が難しいところなんだ。ヒーローなんだから力を見せればいいじゃないかと思うけど、その頃考えていたことはね、それじゃ人間がダメになると。神様みたいな力で弱っている人を助けるということが、果たしていいのかどうか。それは、ただの対処療法にすぎないでしょう。

最近のNGOも昔と違って、貧しい人に施しをするだけじゃダメなんだという考え方に、変わってきている。最終的に、その人達が自立することが目的だから、それが出来るようになるまで、面倒をみるというふうにね」

聞き手;
「その通りだと思いますね。それをヒーロー番組の中でやったのが凄いところだと思うんです」

伊東氏;
「大人のドラマじゃ出来なかったと思う。子供番組だから、出来たんですよ。何でも神様が解決してくれるというのは、逆に言えば人間をないがしろにすることでしょう?だからね、あくまでも人間本位にしないと。確かにここで描いているのは、あんぱん2個千円という誇張された世界ですよ。

でも超越した力ですべてを解決するんじゃ無くて、人々が何で苦しんでいるのかということを、見極めないとダメなんじゃないかと思う。この作品では、死ね死ね団という悪にその原因を集約させて描いてはいるけど、『そこに象徴される原因を、どう排除していくのか?』ということを常に考えていかないとね。

何でもかんでも『神様、お願い!』では、勇気をもって物事に立ち向かうという発想が生まれないじゃない。こういうことができたのは、やはり川内先生というカリスマ的原作者がいたからでしょうね。他の番組なら、いろいろな意見が入ってきて、こうはいかなかったと思う」

(おわり)


★★★★★★★★★★★★
レインボーマンの後半で、その本体であるダッシュ7の力を強化するために、合体の術(レインボークロス)を体得するが、この術のおかげでダッシュ1~6までの化身単体に変身することが無くなってしまい、画としてはつまらないものになったように思う。

複数のサイボーグと戦うための手段として、複数の化身の力をダッシュ7が身に付けることが出来る術なわけだが、その術の欠点も創るべきだったと思う。合体の術は3分間しか持たないとか、ヨガの眠りが1時間増えるとか、新たに弱点を創ることで、死ね死ね団との戦いがより厳しいものとなったに違いない。

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レインボーマン(5) ~「レインボーマン」では、実に気持ちよく仕事が出来ました(特技監督;故・有川貞昌氏)その1 [レインボーマンこぼれ話1]

ウルトラファンなら、このお名前をご存じの方は多いと思う。たいへん残念なことに、2005年9月に他界されてしまわれている。有川貞昌氏は戦後の混乱期に就職したが、色々な事情で東宝と円谷特技研究所を行ったり来たりしている。最終的には東宝に席を置いたようである。

円谷英二氏が特技監督を務める作品で撮影助手・カメラマンを歴任し、その右腕として活躍された。やがて円谷プロのテレビ映画『ウルトラQ』で特技監督デビューを果たし、その後東宝映画『怪獣島の決戦 ゴジラの息子』でも、東宝の二代目特技監督に就任した。

1970年の師匠円谷英二の死去を機に東宝を退社。翌年、国際放映に移り、『レインボーマン』『バトルホーク』などに関わることとなる。円谷英二の愛弟子として薫陶を受け、円谷を『オヤジ』と呼んで慕った。穏やかな顔つきの人物にみえるが、仕事現場では非常に厳しい人であったという。

では、有川氏のインタビューをどうぞ。


★★★★★★★★★★★★
聞き手;
「『愛の戦士 レインボーマン』に参加された経緯からお聞かせ下さい」

有川氏;
「お話は、当時の東宝テレビ部の芝山さんから来たんです。元東宝撮影所長をやっていらした方です」

聞き手;
「東宝のプロデューサー、野口光一氏からの依頼ではなかったのですか?」

有川氏;
「野口くんとは、以前一度仕事をしたことはあるんです。僕はオヤジ(円谷英二)から『テレビの方を開拓してくれ』と言われて、1年半くらい円谷プロに在籍していたことがありますが、その時彼が東宝から出向してきて、『怪奇大作戦(68年)』をやったんです。

これが終わると彼は東宝へ帰りましたが、その後も私はよく東宝へ顔出すことが多くなり、国際放映に移って、また『レインボーマン』で彼と組むことになったわけです。この作品がうまくいったと思えるのは、彼がよく協力してくれたおかげですね。

他のプロデューサーだったら、私のいうことを理解してくれたかどうかわかりません。彼は以前こういう特撮番組の経験があるから、本編と特撮のバランスをどう取るかということが分っていたんですね」

聞き手;
「川内康範先生とは、お会いになりましたか?」

有川氏;
「はい。始まる前に、ホテルニュージャパンにあった事務所に呼ばれました。この時は、正直ビビリましたね(笑) 最初はおっかない人だと思っていましたから。実際にお会いしてみるとそうでもありませんが、でもああいう雰囲気で押してくるタイプの人は、映画界にはいませんね」

聞き手;
「その時は、どのようなことを話しましたか?」

有川氏;
「映像的に凝るよりも、俺の書いたテーマを大事にしながらやってほしいということを言われましたね。他の人なら、『とにかくカッコよく創ってくれ』って言うと思いますが、川内先生は、脚本に込めた俺の気持ちを大事にしてくれと言われました。

そのあと何度か打ち合わせでお会いしていますが、『あれはダメだった』と言われたことは、一度もありませんでした。むしろ『よくやってくれている』と、ほめていただいて」

聞き手;
「国際放映に移られてから、初めて長丁場のテレビシリーズを手掛けられたわけですが、それまでの仕事の仕方と比べて、大きく違った点はどこでしょうか?」

有川氏;
「円谷プロや東宝でやっていた頃は、グループで仕事をしているという感覚がありました。言いたいこと言いながらやっていましたし、自分の力不足の部分は誰かに助けてもらいながらやっていたんです。でも国際放映に移ってからはその感覚を捨てて、個人の力で、一枚看板でやらなきゃいけないんだと、気を引き締めました。

テレビに移って間もないために、そのやり方にまだ慣れてない頃で、なかなかコツをつかめないでいました。最初はシャカリキになってやったり、他の作品を観て反省したり。あと、映画はその1本で勝負しますが、テレビは26本なり52本という期間の中で、色々なことを考えないといけない。それは初めての経験でしたね」

聞き手;
「この作品では、気持ちよく仕事が出来たという理由は何でしょうか?」

有川氏;
「一番大きかったのは、人間関係に恵まれた事だと思います。プロデューサーの野口君はよくやってくれたし、他のスタッフとも非常にスムーズに仕事が出来た。本編の監督をやっていたヤマケン(山田健監督)や長野ちゃん(長野卓監督)とも非常に親しかったし、そういう点は楽に仕事ができました。ヤマケンは、確か川内先生の事務所で最初に紹介されたんですよ。

その時彼が、『有川さんは、僕の大先輩なんです。有川さんが全盛期のゴジラをやっていらっしゃる頃、僕はガメラをやっていたんです』と言うから、『誰のところでやってたの?』と聞いたら、『湯浅(憲明)監督です』と・・・。それからグッとくだけた関係になったんですよ。お互いに言いたいことを言い合えるようになりましたし、相手が困っていれば、何とかしよう思うようになりましたね」 
(つづく)

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