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仮面ライダーを創った男たち(1) [仮面ライダー1号・その1]

両スタッフの証言によれば、ウルトラマンも仮面ライダーも最初は単発の連続ドラマで、シリーズ化などは全く考えられていなかった。『ウルトラマン』はウルトラマンAの登場でウルトラ兄弟という設定を得てシリーズ化していき、『仮面ライダー』は主人公・本郷猛役の藤岡弘、氏が撮影中の大怪我で出演不能となり、2号ライダーの登場という苦肉のアイデアを得て、シリーズ化へのきっかけを作っていった。このピンチをチャンスに変えていった当時のスタッフたちの証言集。


平山 亨(元東映プロデューサー・故人)
インタビュー;
「ボクはほとんど毎週ね、石ノ森先生の所へ訪ねて次の怪人のキャラクターを描いてもらってたの。先生はもう描くのが速いの。先生の頭の中に浮かんでくるんだろうね、先生のアイデアもいろいろ出てくるわけ。クモにもいろいろあってねとか、水グモなんかもあるし、そういうのどうだとか。それを台本の方に、そういう先生のアイデアを入れたりしてね」

「主人公は改造人間になりたくてなったんじゃない。ホントは普通の人でいたかったんじゃない?。そういうのボクは好きだし、先生もそうだった。だからボクは先生とそういうところが性が合ってたんだろうな、きっとね」


前沢 範(レインボー造形企画代表)
インタビュー;
「私なんかは先生と直接打ち合わせをしたり、ゴレンジャーやなんかがあったときにね、試写を見てそのあとに、先生はちょっと時間あるならデザイン画何枚か描いてくださいって頼むんですね。あの先生はサササッーってだいたい10枚くらい描くんです。

それで細かい事は言わないです。で、前さん、これ頼むよ、任せるよって。でね、任された方がこっちもイメージ膨らませることができますから、楽しいんですよね。中に入るアクターは目をじかに出すし、ってことになると動きも良いしね。

下は足そのもので、上だけあってそれがちょっと暗い所から出てくると、化けてるって感じになるんですよね。できる限りレアルに作りたいという気持ちはありましたよ。子供の目で見て、ホントに怖いのか、別に怖くないのか、こっけいなのかとかね。でもね、みんなやっぱり怖かったんでしょうね」

★★★★★★★★★★★★
順調な滑り出しの仮面ライダーだったが、主役の本郷猛を演じる藤岡弘、が撮影中にバイクで転倒、全治6か月の大けがを負ってしまった。藤岡の回復を待っていては、番組に穴が開いてしまう。本郷猛がショッカーに殺されたことにし、新しいヒーローを立てる案まで打ち出された。

そして平山が出した結論は、佐々木剛演じる仮面ライダー2号の登場だった。本郷猛はショッカーを追って、ヨーロッパへ旅立ったことにした。変身ポーズが子供たちをとりこにし、仮面ライダーは一大ブームになっていく。

さらに傷の癒えた藤岡が復帰したダブルライダー編では、30パーセントの視聴率をたたき出し、これによって仮面ライダーはシリーズ化のきっかけをつかんでゆく。


平山 亨(元東映プロデューサー・故人)
インタビュー;
「早く殺しちゃえって!いうから、でもって近藤正臣連れてこいって・・・。仮面ライダーは改造人間でしょ?改造人間が死んじゃったらマズいでしょ(笑)。こりゃね、子供が聞いたらビックリするし、バカバカしくなっちゃうと思うんだよね(笑)」

「石ノ森先生のおかげだったり、ライターや監督のおかげだったり。役者のおかげだったり、みんなのおかげで、なんとかここまで来られましたですよ。一番うれしいのは、当時子供だった人が立派な大人になって、その人が子供の頃の思い出を語ってくれたりするわけだから・・・」



◆★★◆★★◆★★◆★★◆
筆者は平山亨氏が他界したことをまったく知らずにいた。この稿を書くにあたり調べていたら、昨年2013年7月31日に亡くなられており、享年85歳だった。とても残念で悲しい気持ちだ。まだまだお元気でいてほしかった。お会いしたことは一度も無いが、そんな気持ちになった。

子供の頃に見ていた番組のほとんどに関わっておられたと言っていいほど、無くてはならない人であったと思う。八手三郎というペンネームを使っていることも、知らなかった。東映ヒーロー番組の主題歌の作詞や原作者名として、よく見かける名前である(正式には東映テレビ事業部との共同ペンネームである)。

心よりご冥福をお祈りすると共に、これからも空の上から、東映の新生ヒーロー達を見守って頂きたいと思う。(合掌)
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仮面ライダーを創った男たち(2) [仮面ライダー1号・その1]

嵐と共にやってきた
誰だ!誰だ!悪を蹴散らす嵐の男
仮面ライダー 正義のマスク
回せ!吹かせ!エンジン吹かせ!
スピード全開!サイクロン!
怒りを込めてぶち当たれ
ショッカーどもをぶちのめせ
ライダーライダー 仮面ライダー

八手三郎作詞、菊池俊輔作曲による『仮面ライダーのうた』 放映当時はエンディング曲であった。この歌を聞くたびに、橋の上でのライダーとショッカー怪人・戦闘員たちとの格闘シーンを思い出す。第二回は本郷猛役の藤岡弘、氏のインタビューをお送りする。

司会;
「当時はアクションシーンか何かの撮影で、事故が起きたのですか?」

藤岡氏;
「いいえ、二輪に乗ってて、スピンターンしてそのまま激突してしまって。一瞬のうちのことで、自分でもあんなことになるとは思ってなくて。ただあのおかげで私自身が、リハビリしながら、復帰までの間に多くの皆さんに迷惑かけながらね、自分を見つめながら、あの期間が一番私にとっての最大の試練だったし、あれを通過したことによって現在の私があるなと思いますし。

待ってくれた多くの皆さんの暖かいお気持ちで、私をまた復帰させていただいたことと、特に平山先生が私が帰ってくることを望んでくださってですね。それがボクにとっての転機だったですね」

司会;
「漫画の方では、本郷猛は死んだことになって、2号ライダーだけが活躍する設定なんですけど、漫画とは違う、待ってくれるという話になったんですよね。復帰を待ってくれることを聞いたときにどんなお気持ちでしたか?」

藤岡氏;
「最初は励ましてくれているのかと思うくらいね、当時は私の耳に入ってきたのは再起不能の大怪我という言葉だったです。でも自分としては何としても治したいという気持ちだったですから。そういう状況の中で、みんな待っているんだから頑張ってくれよと、そういう熱い思いが伝わってきてですね。私もそれによってものすごく励まされて、頑張れたと思いますね。

あの時は皆さんのそういう気持ちが伝わってくるたびに、何としてでももう一回戻りたいという気持ちは執念で持っていましたから。病院では夜になるとリハビリに精を出して、朝までコツコツと頑張ってきたんですよ。佐々木(剛)さんが私のために頑張ってくれてね。私が戻るまでやってくれたことに、友情を感じていますね。彼とは当時同じ俳優養成所で同期だったんですよ。

で、彼がボクのために、じゃあ藤岡が帰ってくるまで頑張ると言ってくれて。そういう熱い思いで、彼が支えてくれたんです。一説によると、藤岡が主役なんだからできないってお断りしたという話も聞いてますが、藤岡が復帰するまでなら引き受けると言ってくれてね。友情を感じてますよ。彼とは養成所で仲が良かったので、ホントにありがたかったですね」

司会;
「ダブルライダーとして復帰した時のことを、覚えてますか?」

藤岡氏;
「覚えてますねぇ。撮影の最初がね、事故を起こした二輪にもう一回乗るっていうシーンだったんですね。それに乗って火山岩を走るっていうシーンがね。さすがに動揺しましたね。事故起こした二輪にもう一回乗るというその時の葛藤にすごく苦しみましたね。

でも周りはね、期待して待ってくれているわけですから、思い切って勇気出して、スターターかけてガーッとやった時の衝撃があって、そのあとどう走ったかは全然覚えてないですね、必死でしたから。あの時が私のひとつの転機だった気がしますね。その時はまだ足に鉄の棒が入っていて、完治してなかったんですね。手術して鉄の棒を抜かなくちゃならなかったですね。

それが曲がると二度と足は元に戻らないという状況でもあったんですね。で、シーンが終わって戻ってきたら背中の辺りがムズムズするんでみたら、鉄の棒が突き出て血がドクドク出てるんですよ。こりゃいけないと思って、スタッフにわからない様にホテルに戻って、トイレに行くっていって風呂場でみたら血だらけなんで、タオル突っ込んで拭いてそしてガムテープバンバン巻いて、撮影に戻ったんですよ」

司会;
「ダブルライダーで出てから、本格的に再登場したのは、三か月後位でしたね」

藤岡氏;
「そうです。だからその撮影の時には、ちょっと危なかったんです。再登場してしばらくしてから、鉄の棒は抜きました。抜いたときには曲がってなくて安心しました(笑)」


★★★★★★★★★★★★
もしも藤岡氏が怪我をしないでライダーをひとりで続けていたら、こんな形にはならず、普通の特撮ヒーローものと同じ様な番組になっていた可能性がある。藤岡氏の怪我をどうやってフォローしていこうかというスタッフのあきらめない気持ちが、仮面ライダーを不滅のヒーローにしていったのだと思う。仮面ライダーは内容的にもスタッフ的にも、『あきらめないことの大切さ』を教えてくれた番組であった。

タグ:藤岡弘
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仮面ライダーを創った男たち(番外編) [仮面ライダー1号・その1]

今回は番外編として、制作に関わった人たちではなく、仮面ライダーに詳しいお三方に藤岡弘、氏とアナウンサー(司会)を加えた5人による座談会という形で、話を進めていく。この座談会の前に、『第四話人食いサラセニアン』の回を鑑賞してこの座談会は始まる。

A氏;
「本編中はサラセニア人間って言ってるんですけども。植物系の怪人だからしゃべらないのかなぁと。言葉を話さないって怖いですよね」

B氏;
「あと、人間の目だって所がこわいですよね」

A氏;
「ショッカー怪人って人間の目で表情芝居がすごく出てて、それで怖いんですよね。あとは照明の暗さとかナイトシーンとか、照明の効果がありますね」

B氏;
「最初の格闘が団地の中じゃないですか。あれ、怖いですよね」

司会;
「私は生まれ育ったのが団地だったんで、リアリティがあって怖いんですよ。自分のウチに怪人が来たら、逃げ場がないってことがすごく分かるから」

B氏;
「脚本は市川森一さんですよね。相変わらず怖いシーンがあって、注射とか電流を流して拷問して殺しちゃいますよね。ああいうシーンは怖いんだけども、市川さんらしい姉弟愛の話にちゃんとまとまっていて、うまいですよね」

C氏;
「戦闘員を捕虜で連れてくるっていうシーンもね」

A氏;
「あの戦闘員、石橋雅史さんじゃないですか!びっくり」

司会;
「その後、数々の特撮番組に悪役としてご活躍なさった方ですね」

A氏;
「ボク、石橋さんの衣装もデザインしたこともありますよ。ダイナマンのカー将軍っていうのを」

C氏;
「ショッカーのマークを、色んな所に書いてましたね」

A氏;
「いいところに気が付きましたね。あのマーク、怪人ごとに毎回毎回違うんですよ。戦闘員の胸のマークとか、基地なんかに書かれている動物のマークとか、全部美術の高橋章さんがデザインされてて、一説では立花レーシングチームのマークっていうかライダーのマークも、高橋さんがデザインされたって聞いたことあります」

B氏;
「凝ってますね」

司会;
「藤岡さんがおっしゃっていた、映画の世界からテレビの方に来て、映画の時にやりたかった情熱をそのままテレビの方にぶつけて、小道具から何から、全部細かく作ってあるとか」

藤岡氏;
のう、照明が凝ってましたでしょう。あれ映画用の照明なんですよ。映画の技術者ですからあそこは徹底的に凝ってね、時間かかるんですよ。徹夜に近いですよ。夜間のアクションとかね、夜間の不気味な怖さを表現するには最高のスタッフですね。あの照明が良かったですよ」

A氏;
「昔見たときは、すごく暗くてよく見えなかった感じなんですけど、今はデジタルの力でディテールまでよく見えるようになったんですかね。ボクの感覚だと、暗がりの中でよく見えないから怖かったという感じがあるんですけど」

B氏;
「おうちのテレビが、悪かったんじゃないんですか?」

全員;
「(笑)」

B氏;
「今見ても、あのシーンは怖いことは怖いですよね。映画の人が入ってこられて、アクションシーンのカメラワークってスゴイですね。つまりこの回のようなストーリーじゃなければ出来ないようなカメラワークを使ってますよね」

司会;
「藤岡さん、敵のアジトに乗り込むアクションシーンのところで、ワーッと言ってましたが、何か思い出深いシーンなんですか?」

藤岡氏;
の当時は制作費が少なかったんでしょうね、(セットが)脆いんですよ。揺れたりね、足がぬけそうだったりしてね。ジャンプしたりすると割れるんじゃないかという感じがしてね。だから心配でね。壊れると一からやり直しでしょ。だから(壊さないように)非常に気を使いましたね」

B氏;
「それで視界は制限されているし、しかもライダースーツを着てるわけでしょ?」

藤岡氏;
いでしょ。足元も危ないので、非常に神経使った覚えありますよ」

司会;
「当時ライダーは、どのくらいの日数で一話撮っていたんですか?」

藤岡氏;
「一週間くらいですね」

司会;
「じゃあ、休みないですね」

藤岡氏;
いですね。特にサラセニアンはナイトシーンが多かったですからね。よけい大変だったですね」


司会;
「大人になって見返すと、あの人がこんな所にって発見が一杯ありますよね」

藤岡氏;
を良い俳優さんで固めてくれたっていうかね。石橋さんなんかもそうでしょ。石橋さんはもともと空手なんかのアクションもすごい方だし、ああいう良い俳優さんたちが支えてくれたんですよ」

A氏;
「おやっさんの小林昭二さんなんかは、いかがだったんですか?」

藤岡氏;
構いろいろ演技指導していただきましたね。ホント良いオジサンでね。『おやっさん、おやっさん』って言ってたんですよ、皆さん」

C氏;
「小林さんはストロンガーまでずーっと見てるわけですからね。ホントのおやじさんですものね」

司会;
「毎年毎年入ってくる新しいライダー役の新人とか含めてみんなを指導していって、本当の意味でのおやじさんになっていったんでしょうね」

A氏;
「当時ウルトラマンのキャップを辞めて、仮面ライダーを育てたっていう設定になってましたけどね(笑)」

司会;
「なるほど(笑)」

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仮面ライダー1号秘話(1) [仮面ライダー1号・その1]

《仮面ライダーは、なぜ武器を使わないのか?》
『仮面ライダー』には、いくつかの映画的な秘密が隠されている。武器を使わないというのもその一つだ。スペシウム光線を使うウルトラマンに対して、ライダーは素手とキックとサイクロン号での体当たりしか武器が無い。ウルトラマンは空を飛べるが、ライダーは15メートルのジャンプがすべてだ。なぜ超人的な武器や必殺の武器を嫌ったのか?

それは、時代劇の監督をやっていた当時の平山(亨)さんの経験によるものだということを聞いたことがある。「昔、萬屋錦之介(よろづや きんのすけ)さんの主演で『清水の次郎長』を撮った時、時代考証をしたら拳銃を持っていてもおかしくないということだったので、二丁拳銃を持たせたことがあったんです。出入りの時に派手なガンさばきを演じてもらって、私達はカッコよく仕上がったと喜んでいました。

ところが上映してみると、お客さんがちっとも喜ばない。日本人の感覚として飛び道具は卑怯だという根深いものがあるんだと思い知らされたんです。だから仮面ライダーにも、武器を持たせようとは思いませんでした」 そんな風に語っていらした。

主人公を巨大化しないというのも、長年の平山さんの経験から来た判断だったようだ。彼が作ってきた子供番組の主人公は、誰も巨大化しない。となりではウルトラマンが体長40メートルにもなっているのに、仮面ライダーは人間の等身大のままだ。

仮面の忍者赤影もそうだし『ジャイアントロボ』ではロボ自体は最初から巨大だが、主人公の少年は当然のことながら大きくならない。仮面ライダーの場合、放映当初視聴率が低迷していた時に、一度だけテレビ局から「大きくしたらどうだ」という提案があったという。

悩んだ平山さんたちは、怪人トカゲロンだけ他の怪人より30センチ程度背を高くした。その程度では誰も気付かなかったと思うし、逆にいえばそれほど巨大化したくなかったということでもある。

そのうち視聴率も上昇し「巨大化案」は消え去ってしまった。今でこそ、仮面ライダーは等身大のヒーローと言われている。遊園地などの実演で子供たちに絶大な人気があったのは、最初から等身大だったからだ。

ブラウン管では巨大なウルトラマンが実演で巨大になれないのでは、子供だってシラケてしまう。安易に巨大化していたら、そんな人気は得られなかった。その意味でも、スタッフの意志の強さが吉と出た結果だった。


《なぜライダーのコスチュームは、色が変わっていったのか?》
よくマニアックなファンに質問されるのは、1号ライダーと2号ライダーのコスチュームがどうしてかという点と、1号ライダーも復帰してからコスチュームが変わったのはなぜかという二点だ。2号ライダーからコスチュームが変わったのは偶然で、仮に藤岡弘氏の事故が無かったとしても、コスチュームは変えていたはずだという。

なぜなら当初の衣装は真っ黒で、夜の対決のシーンになると姿が見えなくなってしまうからだ。ライダーとこうもり男の対決シーンでは、黒対黒で画面が真っ黒だったという。これでは変えざるを得ない。それだけでなく、衣装などは途中で何回もマイナーチェンジを繰り返している。

これも平山さんの話だが、彼は当時人気急上昇中だったマンガ雑誌の編集者に話を聞いて、「主人公の姿形は途中で変わってもいい」と教えられたというのだ。

当時の映画的な考えでは、一度世に出た主人公は何があっても姿や衣装を変えることはなかったという。鞍馬天狗しかり、赤影しかり。いつも同じ衣装で通している。これに対し漫画は、長く読んでいると主人公の姿は変わるし、顔つきまで変わったしまうこともある。

平山さんはそのことを不思議に思って漫画の編集者に聞くと、「変わったっていいじゃないですか。主人公がよくなるのなら。我慢して元のままにこだわる必要はないじゃないですか」というあっけらかんとした答えが返ってきたという。

当時漫画雑誌は雨後のタケノコのように誕生し、世の中の人気を集めていた。そのメディアの勢いを借りて、平山さんたち制作陣は、『仮面ライダー』の衣装を徐々にマイナーチェンジしていった。1号ライダーは、復帰してから手袋とブーツがシルバーになった。

2号ライダーも手袋とブーツが赤になった。ジャンプスーツも、ラインが入ったり銀色になったりした。皆、少しでもいい主人公にしようという、スタッフの執念の賜物であった。


★★★★★★★★★★★★
仮面ライダーにも巨大化する予定があったことに、本当に驚いてしまった。確か映画で『仮面ライダー対ウルトラマン』というのがあったような気がするが、巨大化した仮面ライダーを観ることが出来る唯一の作品では無いだろうか。この原稿を書きながら、早速検索してみると、確かにあるなぁ。題名は『ウルトラマン対仮面ライダー』 当時円谷プロと東映も共に作品を放映して無い時代に作られた、貴重な映像である。さすがに力の入れ方は雑ではあるが、仮面ライダーが巨大化する瞬間を見ることが出来る。つっこみ所はたくさんあるが、思うことは一つ。「仮面ライダーが等身大ヒーローで、よかった!」

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仮面ライダー1号秘話(2) ~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その1]

《ウルトラマンに負けるな!》
「仮面ライダー」のライバルは「ウルトラマン」だったと書くと、何か気恥ずかしい。私達が「仮面ライダー」の撮影に入った頃、「ウルトラマン」はすでに三年前から放送されていて、子供たちの大ヒーローだった。

1968年に誕生した「ウルトラマン」は、その四年前、日本の高度成長の原点となった東京オリンピックで金メダルを量産した男子体操競技を出発点としている。とても人間技とは思えない鉄棒や床運動の演技に、「ウルトラC」という称号が付けられた。

そこから、「ウルトラ」というのは人間技を超えた凄いものというイメージが広まり、「ウルトラマン」の誕生となった。言うまでも無く「ウルトラマン」は円谷プロの制作で、TBSが放送して大ブームとなっていた。

それに対して「仮面ライダー」は、なぜライバルというのがはばかられるのか。視聴率から言えば、「仮面ライダー」だって徐々に頭角を現して肩を並べ、全盛期には「ウルトラマン」を抜き去るまでになったのだから、卑下する必要はない。

「ウルトラマン」も今に続く第二,第三のブームを呼んでいるが、「仮面ライダー」だって長寿ブームを誇っている。ここでもひけを取っていない。ところがそれでも私たちが素直にライバルと言えないのは、当時の撮影環境のあまりの違いを知っているからだ。少なくても制作費を比べたら、何倍かの違いはあったのではないだろうか。

円谷プロは特撮の歴史も古く、様々なテクニックを駆使して怪獣の迫力やスケールを上手に撮影していた。「ウルトラマン」はスペシウム光線という武器を持ち、隊員が乗る車や飛行機も近未来を想定した斬新なものだった。それに比べて「仮面ライダー」はどうだっただろう。

画面を思い返していただければわかるが、ライダーに武器は無し。パンチとキックのみ。乗っているのはサイクロン号という名のバイク。時速400キロで走り、30メートルのジャンプが出来るという設定にはなっているが、空を飛べるわけではない。極めて現実的だ。

改造人間の着ぐるみも、よく見ると寸法が合わずに素手が出ていたり、目元から素顔の一部が覗いていたりしたはずだ。撮影も、ライダーは人間の等身大だから、金のかかるセットやミニチュアは無し。撮影方法も、ほとんど特撮は使わなかった。

その代り、生身の人間が高い崖から飛び降りたり、ロープウェイに命綱無しにつかまったり、トランポリンで高く飛び上がったり、水中に投げ込まれたりしていた。つまり、お金はかけないけれど身体は酷使するという、本当の意味のアクションだったのだ。これでは同じ子供のヒーローだからといって、ライバルとは言えない。いや、言いたくない。

自分たちを卑下するという意味ではなく、私達は自分の身体を駆使してヒーローを創り出したのであり、ウルトラマンとは違うと言いたいのだ。だから、「仮面ライダー」のライバルは「ウルトラマン」では無い。むしろプロレスだったり相撲だったりスポーツ番組だったといってもいい。

人間の肉体は、勇気と鍛錬によってどこまで力を発揮できるのか。どこまで不可能を可能にできるのか。どんなに強いものか。どんなに美しいか。無意識のうちに、子供たちはそういうことを感じてくれていたのではないか。それが、人気の秘密だったと思っている。


《ライダーのヘルメットはこうして作った》
「仮面ライダー」の撮影に入る前の最初の打ち合わせ、それは仮面作りから始まった。そもそも仮面もので行こうというのは、プロデューサーの平山さんと放送局との話し合いで決まっていたらしい。当時の子供番組はアニメのスポーツ根性物語が全盛で、実写は「ウルトラマン」でも苦戦していたそうだ。

そういう時代にあって、「仮面ライダー」は土曜夜七時半のお化け番組「お笑い頭の体操」(*)の裏番組としてスタートすることが決まっていた。
(*)1968年2月3日から1975年12月27日までTBS系列局で放送された、大橋巨泉司会のバラエティ番組。後番組は、これはもう有名なクイズダービー。

苦戦は必至。「駄目でもともと」の投げやりな放送枠だったそうだ。「そういうときは周囲を見回して、無いものをやればいいんだ」と、毎日放送の庄野プロデューサーは言ったらしい。確かに二番煎じ三番煎じのアニメを持ってきても、コケることは目に見えている。だったらそれまでにない実写で、しかも主人公が途中で仮面をかぶる「変身もの」はどうだろう、と企画は進んでいった。

このとき平山さんは、主人公が途中で仮面をかぶるよりも、自然に変身して身体の内側からパワーがみなぎってくるのがいいと考えていた。当時アメリカで流行っていた漫画「超人ハルク」の主人公が、そのパターンだったという。怒ると背広を着た肉体が盛り上がって、中から緑色の筋骨隆々の肉体が服を破って現れる。この登場にはインパクトがある。

そのアイデアが重なって、「仮面」+「変身」ということになった。ライダーの仮面やジャンプスーツ、ブーツ、手袋などは、すべてオーダーメイドだった。ヘルメットの内部には、アクションの衝撃を和らげるようにパッドが入っている。被ってみて最初に感じたのは、重心の高さだ。被ると、頭が前のめりになる。問題は視界だった。

仮面越しに前を見ようとしても、視界を確保するための穴が小さくて、両脇と上下が見えない。穴はちょうどライダーの大きな目の下に、細長く切られていた。撮影の最初の頃は、どうしても視界が不十分だから、アクションの加減が分からなかった。どこから敵がやってくるのか、どこに足場があるのか、当てずっぽうでやるしかなかった。

だから戦闘シーンでは、無我夢中でパンチやキックを繰り出して、間違ってショッカー役に当たってしまうことも、しょっちゅうだった。もちろん擬闘とは言っても、真剣な果し合いの方が映像が締まることは明らかだ。迫力ある画が撮れたのは、視界が狭かったからだと言えなくもない。

けれども、当時から私は柔道、空手の有段者だったので、パンチやキックがモロに当たったときの痛みはよく知っている。中には間違ってパンチが顔に入ってしまい、前歯がガクガクになってしまった人もいた。ショッカーを演じていた大野剣友会の皆さんには、たいへんご迷惑をおかけしてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいだ。新人だった当時の必死さに免じて、お許し頂きたい。


★★★★★★★★★★★★
確か、「帰ってきたウルトラマン」の郷秀樹役団時朗氏(当時;団次郎)が、ライバルは「仮面ライダー」だと言っていた。あの頃は仮面ライダーの方が人気が上だったのかもしれない。「仮面ライダー」と「ウルトラマン」は比較できない別物だと藤岡氏が言う理由も、言われてみればそうだなと思う。

どちらも、かつて日本には無かったタイプの新ヒーローなのだ。全く新しい流れを作ってくれた東映と円谷プロには、本当に感謝したい。どちらとも、製作環境に違いはあっても、ちゃんと作ってくれていたことが、長い人気を保っている理由であることに間違いないと思う。

今の時代はCG(コンピュータ・グラフィック)で危険なスタントも画像処理で簡単に映像化できるようになったが、昭和ライダーたちの映像が好感を持って観ることが出来るのは、当時のスタッフの一所懸命な手作り感が十分に伝わる映像になっているからだと思う。
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