SSブログ
仮面ライダー1号・その2 ブログトップ
前の5件 | -

仮面ライダー1号秘話(6)~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その2]

思うがままに改造人間をあやつり、世界の平和を乱し、手中に収めようとするショッカー一味。その行く手を阻止せんとし、敢然と立ち上がる我らが仮面ライダーの必死の攻防。この映画は単なるアクションドラマでは無く、スピード感あふれるアクションに奇怪さをプラスした「痛快怪奇アクションドラマ」である。

これは「仮面ライダー」台本の巻頭に書かれたもので、「仮面ライダー」の目指すところを簡潔に表現している。この「仮面ライダー」の産みの親として、原作者の石ノ森章太郎氏と同じかそれ以上の存在であり、藤岡氏にとっては恩人でもある、故・平山亨プロデューサーが藤岡氏に宛てた私信を、今回は紹介させていただく。

番組開始早々に大怪我をした主役をかばい、「藤岡が治っても復帰できないような処置は、断じてしない」と言っていたという平山氏。藤岡氏も、平山氏がいなかったら、自分の役者人生は今とは全く別のものになっていただろうと語っている。このふたりにとって、それほどに大きな事件だったし、大きな決断だったわけである。
では、どうぞ。


★★★★★★★★★★★★
藤岡弘君

君が主演した「仮面ライダー」が終了してから早26年(当時)。藤岡君だけでなく、多くのライダー諸氏が番組を卒業し、様々な分野で活躍しているのを見るのは携わったプロデューサーとしてうれしい限りです。

特に藤岡君は日本だけでなく、世界を舞台に活躍されています。その姿を見るにつけ、26年前の君の姿を昨日のことのように思い出しています。オーディションの日、長身の君が面接室に現れたときの強烈な印象は、今でもまぶたに焼き付いています。

決してスマートとは言えない応対でしたが、何よりハンサムで鍛えられた肉体が凛々しく、その立ち姿だけでテレビ局のプロデューサー諸氏は驚いた様子でした。オーディションには他にも多くの俳優諸氏が来てくれました。今になって名前を挙げれば、誰もが驚く有名俳優もいました。

けれどその中でも藤岡君のカッコよさは印象的で、ほとんど即断即決だった記憶があります。あの頃の君は、所属していた松竹では思うようなチャンスを与えられず、必死の思いで我々のオーディションを受けてくれたのだと思います。

当時も今も子供番組への出演は、役者にとってはひとつの賭けです。たとえ番組が当たっても、役者としては「子供番組役者」のレッテルが貼られてしまいかねないし、その後の配役にも影響しかねません。けれど君はそんな心配を吹き飛ばして、豪快な演技を見せてくれました。

忘れられないのは、万博記念公園で行った番組の記者発表の時のことです。主演役者として紹介された君は、記者から「オートバイには乗れるのですか?」と質問されました。すると君は怒ったように「乗れます」と答え、公園の長い石の階段を猛スピードで登りはじめ、あっという間に頂上にたどり着きました。それを見た記者は大喜びで記事や写真に使ってくれたのです。格好の前宣伝になりました。

そもそも番組にオートバイを登場させようというアイデアは、毎日放送の広瀬隆一編成局長の発案でした。(途中省略)その局長が「今度の番組ではバイクをつかえ。スクーターなんかでポトポト走るのは許さんぞ」と言っていたのですから、君の最初のパフォーマンスは、ピッタリだったのです。

ところがあとで聞くと、君はバイクであんな階段を登ったことなんか無かったそうですね。あの時、「できます」と言ったのはハッタリだったと知って、プロデューサーとしてその「勢い」をうれしく思ったものです。

とはいえ、その「勢い」が裏目に出てしまった第九話の事故の時は、私も思わず目の前が真っ暗になりました。その日の現場を仕切っていたのは、今は故人となられた山田監督でした。『監督という仕事は辛いんだよ。スタートの号令をかけるのは監督だ。

俺がスタートって号令かけなければ、藤岡君は怪我しなかったんだなんて思うんだよ。事故った藤岡君の足を見たら、彼の足が逆を向いてブラブラしていたんだよ。ズキーンとなっちゃってね、思い出しても身震いするんだよ』と、癌で亡くなる直前、お見舞いに行ったときにも、つらい思い出として語っていました。

入院して手術のあと、私達は病院の先生に君がいつ復帰できるのかと聞きました。番組は一週間に一話ずつ放送されていきます。現在8話分のストックがあるけれど、漫然と藤岡君の復帰を待っていたのでは、たちまちストックは無くなります。

いつまでなら待てるのか、いつになったら君が復帰できるのか、待っていけるものならギリギリまで待って藤岡君で続行したいので、こんな時にこんなことを聞くのは非常識だとは思ったけれど、これも君を守るためだったのです。 (つづく)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

仮面ライダー1号秘話(7)~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その2]

(前回からつづき)

「一週間ですか?」と聞くと、医師は黙って首を振りました。「では二週間ではどうですか?」と聞くと、今度は医師は厳しい表情で言いました。「復帰などを考えるのではなく、何とか足が治るように祈ってください」と。私の認識と藤岡君の怪我の状態とでは、大きな隔たりがあったのです。

その医師の言葉を聞いて、私はふたたび、崖から突き落とされたようなショックを受けたものです。けれどプロデューサーとしては、いつまでもクヨクヨしている訳にはいきませんでした。考えなければならないことは、番組の存続です。

藤岡君の出演カットが残っている九話、十話はなんとか脚本を手直しして完成させ、そのあとのことも、考えなければなりませんでした。

何より最初にやらなければならなかったことは、毎日放送さんに「主演俳優が大怪我したのだから、この番組はもう駄目だ。打ち切って他社の番組に取りかえよう」と考えられたのでは、今までの苦心も水の泡だ。そう思わせないように、対策の手を打たなくてはならない。

「手はある。絶対に駄目じゃないぞ」。それにはまず、私が弱気を見せない事。藤岡君の番組を守り抜こう。不安になったスタッフの心配も打ち消すために、まず九話と十話の手直し台本を見せて説明しました。

藤岡君が入院していても、なんとか仮面で芝居をして乗り切れるのだ。仮面に哀しみや喜びを演じさせるという説には、監督もカメラマンも「それは無理だ」と言いました。しかし私は、もう藤岡君が復帰できるまでは、これで乗り切ろうと覚悟しました。

スタッフであるあなた方は超一流の技術を持っている。その技術をもってすれば、仮面が泣くようにも撮れるはずだ。私は、駄目なスタッフに無理を頼んでいるのではない。奮発してください。やがては藤岡君も復帰してくる。あなた方の力で、我々の番組を、藤岡君の番組を守ってください。

みんなは見事にその任を果たしてくれました。素晴らしいスタッフでした。この素晴らしいスタッフたちも、みんなそれぞれの会社で劇場映画の世界から疎外され、心ならずもフリーになって、テレビ映画を撮っていた人達です。

腕は確かな人達だから、心が通えば、百のものを二百にもする働きをしてくれたのです。こういう心のスタッフを前にして、藤岡君の事故の時に最初に思ったのは「この人達の人情を、裏切ってはいけない」ということでした。

例えば藤岡君が怪我をしたからといってすぐに代役をたてて、君が復帰できないようにしてしまったら、スタッフたちはきっとこう思うに違いないのです。「主役だって怪我をしたらすぐに代えられてしまうんだから、俺たちもいつ首を切られるか分らない」と。

そうではないんだ。俺たちは怪我や事故を乗り越えて、一つの物語を作っているんだという気持ちを盛り上げるためには、藤岡君には絶対に治ってもらって、現場に復帰してもらわなければならないと、私は心に誓ったものです。

こんな頃私の頭に渦巻いていた計画は、貴君がベッドに寝ていても空色バックを持ち込んで、アップは撮れるかもしれないということでした。僅かでも撮れれば、あとは吹き替え俳優と仮面とでなんとか乗り切れる。そうすれば貴君の復帰が一年後でも、視聴者には気付かせずに貴君の復帰までやり通せると思ったのです。

私はその頃、毎日放送さん対策と現場指揮とで忙殺されて病院へは行けなかったのですが、阿部プロデューサーが貴君にそのことを伝えたら、貴君は激しい痛みを顔には見せずに「やります、演らせてください」と言ったそうですね。

責任感の強い貴君らしいけれど、阿部プロデューサーは先生の許諾を得ようとして、「とんでもない。絶対安静です。大体藤岡さんがいくら我慢強くても、痛くて芝居なんかできませんよ」と叱られたそうです。

それにしても藤岡君。君の事故からの復帰は見事な執念でした。まだ足の中に鉄棒が入っていた頃、病院の先生は「歩くだけでかなりの激痛があるはずです」と言っていました。ところが君は、高い所から飛び降りたり、時には全力疾走したりして、見事に撮影に復帰してくれました。

そういう君の姿を見て、スタッフたちも一層の情熱を番組に傾けてくれたのだと思います。君の必死さがスタッフに伝わり、彼らの「人情」を刺激して番組も燃えたのです。

事実、視聴率も君が不在のときは2号ライダーの佐々木剛君が頑張ってくれ、君の復帰の回で一気に跳ね上がり、それが続くV3、X、アマゾンへと引き継がれ、最盛期には30パーセントにも届く人気番組になりました。

シリーズ全体では昭和46年から昭和59年まで、実に13年間も続くことになったのです。撮影開始2か月目に主演俳優が生死をさまよう事故に遭った番組が、こんなに長寿と人気を誇ることになろうとは、いったい誰が予想できたでしょうか。

私は貴君が復帰した鹿児島ロケには随行できませんでしたが、やがて出来上がってきたラッシュ試写であの1号2号感激の握手を見て、試写室の隅で感激の涙をこぼしたのです。良かった、これで藤岡君の番組を守り通した。

忘れもしません。ライダーを卒業してしばらくした時、君は珍しく愚痴を言ったことがありました。(途中省略)もうライダーと呼ぶのは止めて欲しい。そうつぶやいた裏には、ライダーのイメージがあまりにも強すぎることに悩み、そのイメージを払拭することに必死だったのですね。

ところがいつのことだったか、確か君がハリウッド映画に出演してアメリカから帰ってきた頃だったと思います。君はわざわざ私の所へ訪ねて来て「平山さん、もうライダーだったことを隠そうとは思いません。今まで協力できずにすみませんでした」と言ってくれたのです。

アメリカで何があったのか、私には知る由もありませんが、きっと大きな自信をつかみ、自分の役者としてのルーツである「仮面ライダー」のことを振り返る余裕を持ってくれたのだと思います。その後の君は全国各地で開かれるファンの集いにも快く出演してくれますし、私からの頼みも快く聞いてくれます。

元々気性のまっすぐな君のこと、何か吹っ切れたものがあったのでしょう。ライダーだったことへの悩みとライダーを誇りに思う心と、いくつかの陰陽を経験して、君は一回り大きな役者に成長されたのだと思います。

(途中省略)私は貴君に教えられたことがあります。まだ仮面ライダーを作り続けていた頃から、私は石ノ森先生に質問を投げかけたものです。先生はヒーローそのもののような方でしたから、ヒーローの在り方について根本的な質問をするのです。

ショッカーのような悪者を倒して平和になった世界では、ヒーローは、仮面ライダーは何をしたらいいのだろうか?これには、さすがの先生も的確には答えてくださいませんでした。いつかこれに決着をつけたいと思っているうちに、先生は逝ってしまわれた。

しかしこのテーマに貴君は実践で応えてくれました。貴君がライフワークだというボランティア活動です。痛めつけられた弱い人々、痛めつける者はショッカーではないが、貧困というものに痛めつけられる人々。天災というものに痛めつけられる人々。

この気の毒な被害者に救いの手をさしのべることこそ、戦い終えたヒーローが取るべき姿だと私は感動したのです。この戦いの相手は、ショッカーより強大で手ごわいでしょう。しかし、みんなの憧れの藤岡弘君が泥にまみれて戦う姿を見れば、いつかは世界中の人々が政治家も財界人もこぞって手をさしのべる日が来るでしょう。

今再び「仮面ライダー」に脚光が当たり、全国各地で再放送されていることは私も知っています。石ノ森先生のご逝去がひとつのきっかけだったことは否めませんが、時代がライダーのようなヒーローを求めているというのも、また正しい認識だと思います。

そこで私は考えます。藤岡君、出来たらもう一度、子供たちにあの仮面ライダー伝説を見せてあげようではありませんか。

今の君が再び本郷猛を演じるのは、決して不可能ではないと思います。他のスタッフもいまだ現役で頑張り、それぞれの世界で第一人者となっています。若い者には負けない、俺たちが時代の主役だと踏ん張ってます。いざ「仮面ライダー」の現場が立ちあがったら、昔以上のパワーで皆が集まってきてくれると思うのです。

ショッカーの環境破壊に立ち向かった仮面ライダーの「自由を守る魂」は、今の世界にも不滅です。むしろ今こそ、人々の心の荒廃から魂を救うために、仮面ライダーが必要なのかもしれません。

仮面ライダーよ、ふたたび。そのことを君と話し合いたくて、今日はペンをとりました。ありがとう、藤岡君。そしてこれからも頑張ろう、藤岡君。
                                         平山 亨


★★★★★★★★★★★★
筆者は涙が出そうになってしまった。簡潔にまとめるが、プロデューサーとして、人として、これほど尊敬できる人物はめったにいないのではなかろうか。しかも優しくて、頼りになる。番組の成功を信じて、あちこち奔走する平山さんの姿が目に浮かぶ。そして2014年3月公開の東映映画で、本郷猛を演じる藤岡弘氏の姿が現実のものとなった!

平山亨さんのご冥福を心からお祈り申し上げます。 合掌

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

仮面ライダー1号秘話(8)~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その2]

《スタッフの執念、「不死身のメッセージ」》
仮面ライダーが画面に復帰してから、視聴率は再びポンと跳ね上がった。しばらくの間、1号と2号ふたりの勇士がブラウン管を席巻していた。この視聴率は、平山さんをはじめとするスタッフたちの『ライダーは不死身でないといけない』というイメージが、子供たちにきちんと受け止められた結果だと思う。

世界的にみても、一度事故で登場しなくなった主人公がふたたび現れるというのは、珍しいという。子供たちにしてみれば、1号ライダーが約束通り戻ってきてくれた、ライダーは約束を破らなかった、不死身だったんだ、とよろこんでくれたのだ。視聴者と番組が信頼関係で結ばれて、その結果が高視聴率となって表れたと思っている。

だから、仮面ライダーを見つめる子供たちの目は、本郷猛が復帰したあたりから痛いほど真剣だった。撮影現場に来る子供たちはもちろんのこと、実演ショーに集まる何千何万という子供たちも、自分たちのヒーローとしてライダーのことを真剣に応援してくれた。その声援があったから、藤岡は怪我をおして撮影に戻ることができたと思っている。


《毎日が命がけのロケ》
復帰して視聴率が右上がりにカーブを描き始めてからの撮影は、スタッフのノリも違ってきた。より高度に、より真に迫ったものになっていった。そうなると活動屋のエンジンはフル回転だ。監督たちもさらに上の視聴率を目指そうと、どんどん難易度の高い演技を要求してくるようになる。

一度、浜松のロープウェイのゴンドラにぶら下がった時は怖かった。地上数百メートルの高さのゴンドラだ。命綱は付けていたが、本番の時はそれも見えないように身体の陰に隠すのだから怖い。関西の六甲山ロープウェイにもぶら下がった。

下を見たらダメだと思ったから、見ないようにして文字通り必死の撮影だった。その時の命綱は、ロープ二本を足に巻いてそれをガムテープで留めただけ。よくあんなものだけで本番に臨んだものだと思う。

この撮影のとき、ショッカーが格闘に敗れて落下していくシーンがあった。それはさすがに人形を使ったが、それが途中で電線に引っかかってしまった。スタッフが慌てて取りにいったが、手が届かずにそのままにして帰ってきた。ところが、その人形がロープウェイから見えてしまい、死体が電線に引っかかっていると思われて、大騒ぎになったそうだ。

高い場所といえば、ゴンドラの屋根の上に登らされたこともある。ライダーブーツは革靴だから、ゴンドラの鉄の屋根がツルツルすべる。危うくロープにつかまると、こちらにも潤滑油が塗ってあってヌルリと心もとない。結局自分でバランスを取るしかなくて、生きた心地がしなかった。

万国博の鉄塔の上での格闘シーンもあった。確か「太陽の塔」(*)の近くだったはずだ。70年に終わった当時の一大行事だったから、その跡地ではよくロケが行われた。残された高台や階段、コンクリートの建物、広場などが撮影の条件に合っていたのだろう。
(*)1970年に行われた大阪万国博覧会のシンボルとして建てられた塔

ライダーは等身大のヒーローだから、大きな動きを見せたい時には自分が高い所に登らないといけない。自然と高所のロケが増えた。私は自分が落ちない様に気をつけていればよかったが、ショッカーを演じていた大野剣友会の面々は、その高い所から飛び降りたり転落したりさせられていた。あれは相当怖いことだったと思う。

毎日が命がけだったから、私や大野剣友会の若手たちは撮影が終わっても酒を飲むことができなかった。翌日のことを思うと、身体を休めることが先決で酒に手が伸びない。そのことひとつをみても、いかに過酷なロケだったが分かろうというものだ。そういう必死の生活の中で生まれた迫真の演技の一つ一つが、高い視聴率につながったことは言うまでもない。


★★★★★★★★★★★★
当時仮面ライダーを見ていた子供たちは、高い所から飛び降りるマネをして、怪我をすることが多かった。筆者も同じで、怪我こそしなかったが、近所の公園にある休憩場所の屋根の上から砂場めがけて、飛んだりしていたことを思い出す。

番組内でも、「危険だから、高い所から跳ぶのは止めるように」と、本郷猛にしゃべらせている。
同時代にやっていた「タイガーマスク」というアニメでも、タイガーの必殺技を作る際には、子供にマネができないような技に工夫したという。

このように、幼児よりも対象が高い子供番組では、その伝える内容を考えるとき、下手なことはできないという点で、製作スタッフのご苦労はたいへんなものがあったと思う。そういう素晴らしい番組を幼少時に観て育った者のひとりとして、とても感謝をしている。

スタッフのみなさん、良い作品を創ってくださり、本当にありがとうございました。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

仮面ライダー1号秘話(9) ~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その2]

《芸達者なショッカーたち》
撮影現場での主人公は、仮面ライダーだけでなく毎回登場する怪人たちであり、ショッカーたちだった。彼らのアクションシーンが決まるか決まらないかで、作品全体のメリハリが違ってくる。特に難しいのは、怪人の着ぐるみの中に入った大野剣友会のスタッフだった。

ビデオを見てもらえば分かるが、仮面ライダーに登場する怪人たちは、皆しゃべる。しゃべりながら闘ったり、しゃべりながら演技を要求される場合もある。そういう場合困るのは、怪人の表情が変わらないことだ。

怒ったポーズ、困ったポーズ、照れているポーズなどを、彼らは顔の表情が使えないから、全身で表現していた。これはなかなか難しい技術だ。大野剣友会のメンバーは、ただアクション俳優であるだけでなく、演技もできることの証明だった。しかも台詞もキッチリと覚えていた。

助監督に台詞を言ってもらいながら演技をしていたベテランもいたが、若い連中はそんなことはなかった。アクションも台詞も完ぺきにこなした。だから後になってそういうメンバーは舞台関係に進んだり、また他の組の撮影現場に入っても十分にその技量を発揮することができた。俳優の素地を、「仮面ライダー」の撮影でしっかりと身に付けた結果だったと思う。


《人気があるという、うれしい悲鳴》      
ライダー1号が復帰し、視聴率もうなぎのぼりになってくると、ロケの待遇もよくなっていった。弁当も豪華になり、宿泊するホテルのランクも上がったように記憶している。

だが初期の頃は、「仮面ライダー」という番組名が全国に浸透していなくて、当時番組のレギュラーだった山本リンダさんの名前の方が有名だったので、ホテルの玄関には「山本リンダご一行様」という看板になっていたという笑えないエピソードもあったという。(この話は、一文字ライダー編のエピソードである)

芸能界での「人気」というものは、恐ろしい。それが無い頃は、何とか人気が出てくれればと念じるが、いざそれが沸騰してしまうと、今度は自分たちではコントロールできなくなってしまう。

例えば日曜日の遊園地に実演ショーに行ったスタッフに聞くと、最盛期には当時の後楽園球場を3周するほどの観客が集まっていたという。当時の遊園地の園長さんに口癖は、「月に日曜日が2回晴れてくれたらいい。あとは遊んでいても儲かる」というほどだったそうだ。

それほどライダー人気はすさまじかった。お客さんは、2時間でも3時間でも平気で待っていてくれる。スタッフも意気に感じて、予定を大幅に延ばして、1日6回公演したこともあったという。ライダーのサインも、今までに何万枚したか知れない。仮面を被って実演ショーに行ったスタッフに聞くと、1日で千枚サインを書くことはザラだったそうだ。

1分に2枚書いたとして、1時間で120枚。8時間ぶっ通して書いたとしても、まだ千枚には達しない。いい加減、手もバカになってくる。脇に色紙を引く係を置き、後ろから扇風機を当てて手を氷で冷やしながら、書き続けたという。これも人気があるゆえの苦しみだった。


★★★★★★★★★★★★
筆者も当時父親に連れられて、後楽園特設ステージに仮面ライダーショーを見に行ったうちのひとりである。ステージの後ろをジェットコースターが走っていた様に記憶している。バカチョンカメラ(*)で撮った写真が、多分どこかに残っているのではないかな。買ってもらったのか、入場するとくれたのかは忘れたが、「お楽しみ袋」を持って帰ってきた。

グッズがいろいろ入っていたが、ライダーと怪人たちの名前入り色紙が入っていたのを、特によく覚えている。おじさんになった今でも、この時のことはとてもうれしかった子供の頃の思い出として、仮面ライダーの話をすればセットになって思い出せる記憶だ。(追伸)このショーにムカデラスがいたことを、なぜだか記憶している(笑)

(*)ピントを合わすことなくシャッターを押すだけで上手く撮れるカメラを、当時こう呼んだ。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

仮面ライダー1号秘話(10) ~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その2]

《オートバイのアクションも「自前」》
変身前の大型バイクや、変身後のサイクロン号に乗ってジャンプしたりスピンしたりするシーンも、「自前」で撮影に臨んだ。元々あのバイクは、現場にはそれぞれ一台ずつしか用意されてなかった。あれだけ激しいアクションをこなすのに1台だけとは、今だったら考えられない条件だ。

それでもバイク担当の室町レーシングの室町さんや、同じくバイク担当の大橋さんが、撮影が終わるたびに修理してくれて、撮影可能な状態を維持してくれていた。番組の冒頭で、サイクロン号ごと高く飛ぶシーンがある。あれはさすがにトランポリンを使うので、スタントの方にやってもらった。

でも、ちょっとした壁から跳ぶシーンは自分でやっていた。大阪の万博会場を使ったロケで、階段をサイクロン号で駆け上がるシーンがあった。あれに挑戦したのは私だ。もちろんスタントの方がやって下さった方が、ラッシュを見るとカッコイイ。けれど私自身が乗れば、画面に顔を映し出すことができる。物語にリアリティが出る。そういう意味でも、アクションも「自前」の方が効果的だった。


《最初のロケ地、小河内ダム》
忘れられないのは、撮影が始まった最初のロケだ。1971年2月、場所は小河内ダム。とても寒い日だったことを覚えている。当時ダムはまだ完成しておらず、水が入っていなかった。私は仮面を被ってジャンプスーツを着、数人のショッカーに取り囲まれて立ち回りをやらされた。

大野剣友会の人達は厳しく仕込まれているから、最初だからといって容赦はしてくれない。彼らはすでに『柔道一直線』や他の番組でアクションを経験しているから、要領はわかっている。ところが私は、撮影開始前に大野剣友会の道場で稽古を積んでいたとはいえ、カメラの前でアクションをするのは初めてだった。

しかも仮面の中では、視界がままならない。繰り出されてくるパンチやキックを必死に防御し、とにかく「しゃにむに」両手両足を動かしていた。次の撮影は、初日にも関わらずなんとエンディングのシーンだった。

緑川ルリ子役の真樹千恵子さんを助けるために、サイクロン号でダムのコンクリート堤防を走り、彼女の肩を抱いて「これから大変な状況が起こるぞ!」という感じで振り返る。撮影の順序がメチャクチャで、アクションからいきなり余韻を感じさせる芝居になるから、その切り替えが難しい。

しかも1日に何十シーンも撮影していたのに、このロケは日帰りだった。いよいよ俺の主演の番組が始まるという高揚感よりも、こんなシンドイ撮影がこれから毎日続くのかという恐怖の方が、先に立っていたような気がする。
        

★★★★★★★★★★★★
特撮ドラマ『牙狼』は、役者さん本人ができるだけ「自前」でアクションをやっているのが番組の売りでもある。ただ、激しいシーンでは、殺陣師の方が役の衣装を着てやられていることは、なんとなく判る。

『仮面ライダー』の撮影当時と今のアクション作品とでは、比較にならぬほど条件面が違うと思うが、殺陣師の方々が体を張ってアクションをするという部分は、それほど変わっていないだろう。危険なアクション・シーンはCG技術を使うという選択肢もあるだろうが、人間が体を張ることによってでる緊迫感には敵わないと思う。

ましてや、スタントマンでもない人が乗り物に乗ってスタントをするとなると、命がけとなる。その作品にかけられる予算との関係もあるだろうが、リアルにこだわるか安全を取るか、そこの所は監督にとって悩ましい所であろうと思う。

nice!(0)  コメント(1)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ
前の5件 | - 仮面ライダー1号・その2 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。