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キカイダーや新マンを造形で支えた男!(1) ~開米プロ・開米栄三氏 [キカイダー対談・2]

開米栄三氏は、怪獣造形会社「開米プロダクション」の代表取締役会長である。東宝怪獣ゴジラのぬいぐるみの制作や『キングコング対ゴジラ』のキングコングのぬいぐるみ制作を担当し、リアルな東宝怪獣の造形に貢献した。

その後は円谷プロの『ウルトラQ』で「マンモスフラワー(ジュラン)」等の造形を手掛けたあと、1966年に独立して特殊造形会社「開米プロダクション」を設立。

ピー・プロの『マグマ大使』の怪獣造形、松竹「ギララ」、日活「ガッパ」の造形指導、大映「ギロン」、「ジャイガー」等の制作を担当した。1971年(昭和46年)、円谷プロ『帰ってきたウルトラマン』では高山良策氏に代わって、「開米プロ」で怪獣造形を担当。

以後「ウルトラマン80」まで、ウルトラ怪獣全般の造形を務めた。1972年(昭和47年)東映の『人造人間キカイダー』の「キカイダー」や「ダークロボット」など等身大ヒーローキャラクターを担当し、「変身ブーム」を支えた。

当時、撮影中に傷んだぬいぐるみを補修するのがたいへんだったようで、のちに型崩れせずに長持ちするぬいぐるみ作りの手法を考案した。これにより、ヒーローショーなどの激しいアトラクション興行にも対応できるようになったという。
では、インタビューをどうぞ。

★★★★★★★★★★★★
聞き手;
「近年昔の作品が見直される機会が増えて、こちらも取材を受ける機会があるのではないですか?」

開米氏;
「取材と言っても、うちは造って収めたらそれで終わりでね。東映作品の場合だと、そのあとは補修で戻ってきたのを直すくらいだから。キカイダーの顔のアクリルが割れたとか、スーツが破れたとか、そういった時だけ持ち込まれてね。で、この作品は屋外撮影がほとんどでしょう。

岩とか砂利とかで擦れてスーツの痛みが激しかったから、ひざがよく破けて。最初はキカイダーのスーツはワンピースだったんだけども、そうすると全身一着まるまる生地を換えなきゃならなくなるから費用がかさむっていうんで、それで途中から上下に分けたんだよ」

聞き手;
「そういう理由があって、ツーピースになったんですか」

開米氏;
「当時、革でこのスーツを造ると一着30万円くらいかかったんだけど、レザー(模造皮革)なら7~8万円くらいで済んだんだ。それを上下割にすればコストを抑えられるからね。

まぁ、最初に一着造って、あとは補修、補修で半年、1年持たせていこうということだよね。ブーツなんかも泥でメチャクチャになっちゃうんだよ。アクションが激しいからね、東映作品は」

聞き手;
「『人造人間キカイダー』は特にアクロバティックなアクションが求められていたようですからね。スーツは酷使されていたんでしょうね?」

開米氏;
「それで足場の悪い所でアクションをするには向かないので、ブーツは踵(かかと)のあるのは止めようということになったんだよ。底がベタッとした方がしっかり接地していいだろうってことで。石ノ森さんも、踵のあるやつだといかにも靴を履いてますっていう感じになるから、止めましょうって言ってたね」

聞き手;
「露出しているメカニック部分の造形も、大変だっただろうと思いますが?」

開米氏;
「大変というかね、この電子部品もこっちで秋葉原の電気街に行って探してきてね。パーツや、ジャンク屋を回って見繕って、結構な量を買いこんできたけど、実際にスーツに合わせてそれっぽく造っていくと、使えるのはそんなに多くなかったりしてね。

それから今度はプラモデルを見つけて、オートバイの車輪とかそういうのもパーツに活用していたね。スーツのうでや脚の所のメカ部分は、一旦本物の部品をくっつけたものを造って、そこからシリコンで起こしてラテックス抜きして、それを張り付けたわけ。

とにかく張り付けていって隙間を適当に埋めていくという作業だったら、同じものは造れないんだよね。だから壊れて修理すると、その前後でちょっと違っちゃってて、ファンの人達はそれが判っちゃうんだよね(笑)」

聞き手;
「そういった素材選びというのも、重要なポイントだと思うのですが」

開米氏;
「うん。とにかく新しい素材を探してくるのが大変だったね。今はいろいろ専用に開発する人達がいるから質も上がってるし専門店もあるけど、当時はそんなこと考えられなかったよ。キカイダーのスーツなんか、多少ではあるけど伸縮するんだよ。

普通のレザーならしないけど、このキカイダーに使った素材は伸縮するレザー素材で、はじめて日本で出来たレザー素材なんだよ。色も当時は7色くらいしか無かったんだけど、革を染めたのと違って光沢がある。今なら革を染めたやつでもツヤがあるけどね。

革のようで光沢があるというのは、当時は他に無い質感だったんだ。でもそのあと、ここで扱ったレザーの技術は、『愛の戦士 レインボーマン』で活かされたしたね」
(つづく)


★★★★★★★★★★★★
まえがきで書いたように、開米プロが昭和の特撮に貢献した所の大きさは、計り知れない。アメリカでは人形をひとコマづつ動かす技術が主流となり、それが現在のSFX映像にも使われているそうだ。日本は「着ぐるみに人が入る」という形態を考案し、それを進化させてきた。

着ぐるみの素材進化やミニチュア造形技術の進歩に、着ぐるみ造形技術の進歩が加わって、よりリアルな特撮映像を撮ることが出来るようになったわけである。
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キカイダーや新マンを造形で支えた男!(2) ~開米プロ・開米栄三氏 [キカイダー対談・2]

(前回からつづき)
聞き手;
「人造人間キカイダーという作品自体の印象については、いかがですか?」

開米氏;
「等身大のヒーローと怪人で、アクションも激しくて屋外撮影というのは、初めてだったからね。ウルトラマンとかはスタジオ撮影だし、飛び跳ねてキックだの、そういうのは無かったからね。スーツの傷み方とかが違うんだよ。そういう部分で、苦心したところがあったね」

聞き手;
「もともとは、どういうお仕事をされていたんでしょうか?」

開米氏;
「お化け屋敷とか博覧会とかの、展示物やぬいぐるみを造ったりしてたんだよ。『じゃあ、小道具や怪獣なんかもできるんじゃない?』と声をかけられたわけなんだけど、なかなか、そううまくはいかなかったね。我々が始めた昭和20年代だと、まだまだ材料もそんなに無かったし」

聞き手;
「現在のように、何用の材料だとか新素材開発なんて無い時代ですよね」

開米氏;
「何にも無い。だから自分たちで使えそうなものを探して、工夫して使ってたもんな。さっき(前回の話)のレザーみたいに」

聞き手;
「話は戻りますが、ウルトラシリーズをはじめとする円谷作品、『マグマ大使(66年)』を皮切りにピープロ作品をメインでやられてきて、急に東映作品を手がけられていますが、こちらはどういった経緯で?」

開米氏;
「知り合いが東映にいて、うちの弟も東映にいたもんでね。私らがこういうものを造っていたのはみんな知ってたし、それで『東映でもやりたいから、協力してくれないか』って声をかけられたんだよ。で、石ノ森さんと会ってお話をして」

聞き手;
「石ノ森先生も、自ら造形の打ち合わせに参加されてたんですか?」

開米氏;
「うん。でもあの人も忙しい人だったからね、打ち合わせとなると私らが桜台まで出向いて、喫茶店でよく打ち合わせしたんだよ。向こうへ行くには結構時間がかかるので、大変だったけどね。そこら辺は汲み取ってくれて、『何回も来るのは大変でしょう』って、1回行くと4体くらいデザインを挙げてくれたから」

聞き手;
「石ノ森先生には、どのような印象をもたれましたか?」

開米氏;
「とにかく、よく絵を描く人だったね~~。話している間にも描いてて、それがまたサッサッサーッと速いんだ。こっちがデザイン画を見て、『ここら辺、造りにくいですよ』とか言うと、『じゃあ、変えましょう』って、その場でサッと直してくれるし。

逆に造ってみて物足りない部分があれば、また同様に『こうしましょうか』って、案を提示してくれるしね。またその場でも、『こういうのはどうでしょう?』と、新しいデザインを描いてみせてくれる。とにかく凄く発想力のある人だった」

聞き手;
「泉のごとくアイデアが湧き出てくる人だった?」

開米氏;
「そう。先生も『人造人間キカイダー』は気に入ってたみたいだったけど、まさか今(当時)になってまた火がつくとは思わなかったろうね」

聞き手;
「最後に、開米さんが手掛けられたスーツ・メカニックに胸ときめかせて、いまだに魅了され続けているファンの方々にメッセージをお願いします」

開米氏;
「私等の番組をみてくれた人達も、みんな大人になっていることでしょう。そういうおとうさん達が子供や孫に、『自分たちは、こういうのを観てたんだ』と話ながら、昔の『ウルトラマン』や『キカイダー』もいっしょに観てもらえたらありがたいな、と思いますね」   (おわり)


★★★★★★★★★★★★
円谷作品については、新マンから開米プロが怪獣造形を担当しているということであるが、ある筋の話では、グドン、ツインテール、ステゴンのみ高山良作氏の造型であるという。それではゼットンはどうかというと、比較してわかるように、両者は似ても似つかない。

初代は高山氏、二代目は開米プロ製作である。それではどうして初代と二代目では造形に差があるのかということだが、まず製作当時はあまり旧造型物に近づけようという考えは無かったということ。

次に開米プロの「芸風」としてあまりシャープに造型しない傾向にあるということ。これは正しくは芸風では無く、壊れにくい着ぐるみの製作技術が、結果として作り方に変化をもたらしてしまったということのようだ。丈夫な代わりに大味な仕上がりの着ぐるみになってしまったという訳である。

現在では開米プロに限らず、オリジナルに近く綺麗な作品としての着ぐるみ製作が定着しているとのこと。時間をかけて綺麗な着ぐるみをつくるそうである。技術の進歩もあるのだろう、出来が良い上に持ちも良くなっているそうだ。ファンとしては、うれしい限りである。
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人造人間キカイダー・キカイダー01の世界観を作った男!(1) ~脚本家・長坂秀佳氏 [キカイダー対談・2]

プロフィールによると、子供時代は本が大好きで、もっぱら貸本屋に入り浸り、貸本屋の本をすべて読み漁った程の本の虫だった。高校卒業後に上京し、プラスチック工場で働いた後に東宝撮影所に入社。在職中にNHKシナリオコンクールでデビューし、その後フリーになる。

筆が非常に早く、締切りを必ず守ることで通っていた。「1日に30分ものが3本書けるくらいが、良いペースだ」と豪語していた。『快傑ズバット』を最後に特撮作品から距離を置き、大人向けドラマを主に執筆する。

その理由として、「特撮作品でやりたい事は”快傑ズバット”で全てやり尽くしたから」と語っている。1980年代になり、たまたまテレビで『仮面ライダーBLACK』を見て、特撮作品執筆の意欲に駆られたが、「ギャラが高すぎる」という理由で参加を断られたという。
では、長坂氏のインタビューをどうぞ。


聞き手;
「『人造人間キカイダー』に参加されるきっかけは?」

長坂氏;
「最初は伊上さん(伊上勝;脚本家・故人)が演っていて、俺はあの時、「刑事くん(71年)」をやってたのかな。その流れで、平山さん(平山亨氏;東映プロデューサー・故人)から話をもらってね。「『仮面ライダー(71年)』とかも、書いてみないかって?」って言われて。

ちょこちょこやってたら、こんどは『キカイダー』の話があった。で、俺はそういうふうに呼ばれて入ったら『作品世界を乗っ取っちゃう』と最初から決めてるから。でね、そこまでのキカイダーの脚本見てたら、キカイダーが善と悪との間で悩むみたいな設定があるのに、そういうことで悩む姿が無い。

ただ特殊能力を持つ正義の味方が悪者どもをやっつける、そんな話ばっかりだった。だからキカイダーが、人間と機械の狭間で悩む、善と悪との間で悩む姿を描きたいと思ってね。俺はどんな敵を出すとか、どういう作戦を練るかとか、どうやって敵を倒すかというのは二の次でね、自分とどう戦うか・・・いつもそこから決めていくんだ。

テーマとか問題とか事件とか作って、それとぶつかった時にどう自分と戦うか、自分に負けない様にどう戦うかという創り方なんで。もちろん相手のキャラクターは考えるけども二の次でね、戦いなんかやらなくてもいいとさえ思う。

でもおもちゃ屋のスポンサーさんの関係で、最低限入れなければいけないから、3分くらい(戦いの場面を入れる)。絶対に5分以上はやらない。ただ戦いを描いているうちに、新しいワザを考えちゃったりする。そんな風にしている間に、だんだん本数が増えて来て。

締め切り守るし、筆が早いとなればさ。当初の予定通り、乗っ取りに成功したわけ(笑) だから後半はほとんど俺で、キカイダー01では完全に長坂体制だったもんね」

聞き手;
「その後半やゼロワンでも、序盤で目立ったのがハカイダー4人衆でしたが」

長坂氏;
「撮影所に行ったら積んであるんだよ、ハカイダーのぬいぐるみが3つも。『なんで、あんなにたくさんあるのよ?』って聞いたら、あれはスペアですよ、アクションするから傷んだ時のためのスペアなんです』って。これじゃ勿体ないから使おうよって、ハカイダー3兄弟を作ろうと。

それでレッド、ブルー、シルバーのハカイダーが生まれることになったんだよ。そしたら、この間もらった原作コミック読んだら、原作の方にも使われてたんだね、4人衆が」

聞き手;
「アイデアをフィードバックされたところもあったようで」

長坂氏;
「ホントは原作料貰わないとなぁ(笑) 『01』は何か新しいものを創るという態勢ではなかった感じがするんだよね。いつの間にか、タイトルが変わった。ある日突然、ジローが池田駿介のイチローになって。改まって、今度『01』になったからどうするとか、大きな打ち合わせは無かったように思うんだよ。

今でもハッキリ覚えているのは、東映の渡辺亮徳部長の部長室で、タイトルを『キカイダー01』にするか『01キカイダー』にするかっていう会議をやって、延々と何時間もやったんだよ。

どうしてそうなったかというと、俺が一人で反対意見を出したから(笑) 『〇〇レオ』とか『〇〇X』みたいにうしろにつくのはそこら中あるから、新しい『01キカイダー』でやりたいって言ったんだよ。

監督もプロデューサーもみんなで6~7人は、『キカイダー01』の方がいいって言ってね。石ノ森さんも俺の主張には賛成だったんだよ。でも多数決で決めたらだめだったね、俺一人だけだもの」  (つづく)


★★★★★★★★★★★★
特撮ものの脚本を多く手掛けていた伊上 勝氏について・・・大学卒業後、広告代理店に入社。『遊星王子』の脚本が入選、テレビドラマとなった『遊星王子』の原作・脚本を担当することとなり、これがデビュー。31歳のとき手掛けた『隠密剣士』で忍者ブームを巻き起こす。

この時に考えた忍者の小道具や忍法のアイデアが、忍者物の基本パターンとして今日まで踏襲されている。1967年、『ジャイアントロボ』を担当し、同作の怪獣のアイデアは、のちの『仮面ライダーシリーズ』に登場する怪人たちの元になったと語っている。

悪の組織の大幹部が次々と交代するフォーマットも本作で確立された。ちなみに『仮面の忍者 赤影』は組織ごとチェンジする方式であり、ともに『仮面ライダーシリーズ』で全面応用されている。(ショッカー→ゲルショッカー、ゲドン→ガランダー帝国など)

1971年、40歳の時に仮面ライダーを手掛ける。長坂氏とは違い、「締め切り守っちゃダメだよ、ギリギリまで伸ばしたほうが直しがないから」と言っていたという。

伊上氏とコンビが長かった平山氏は、京都で時代劇に関わってきたため、『仮面ライダー』は「時代劇でいいんだよ」と伊上氏やスタッフを引っ張る。

伊上氏が得意とした「人の目を忍んで活躍する主人公」や、「人知れず暗躍する悪の組織」といった忍者物時代劇の図式をそのまま現代劇に応用させ、以後の東映ヒーロー番組の定番フォーマットとなった。1991年、60歳の時に肝硬変のため死去。

伊上・平山コンビが1970~80年代にかけて、筆者と同年代の子供達に夢と希望を与えるような作品を次から次へ生み出してくれた。

60歳で他界された伊上勝氏の才能と血は、その実子・井上敏樹氏がバトンを引き継ぎ、平成ライダーたちを生み出して今日に至っている。この親子リレーはとてもうれしいことであり、感動的ですらある。昭和と平成のヒーロー達に、栄光あれ!
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人造人間キカイダー・キカイダー01の世界観を作った男!(2) ~脚本家・長坂秀佳氏 [キカイダー対談・2]

(前回からつづき)
聞き手;
「その後のストーリー展開については?」

長坂氏;
「ストーリー展開については、俺の独断で決まっちゃっていったみたいだからね、ビジンダーとかワルダーとかさ。最初はワルダーはレギュラー入りする予定は無かったんだと思うんだよね。1回きりのゲストキャラだったと思うんだけど、こいつは面白いなぁと思って、『もっと使いたいんだけど、いいかな?』って聞いたんだ。

顔出しの役者を使うキャラクターじゃないから、ぬいぐるみひとつ出せばいいわけで、それでお話さえ面白く持っていければいいわけだよ。で、こいつを殺したくないって言ったら、『それでは今回の殺され役が、いなくなっちゃいます』って言うんだ。

『倒す相手がいないなら、昔のヤツをもういっぺん倒そう』って言って、前使ったぬいぐるみに手を加えて出すことにして、ワルダーを活かす方向に持って行ったんだ。何がしたかったかっていうと、彼らでメロドラマをやりたかったわけよ。

要するに1話完結で行くんじゃなくて、たて糸をとらえた連続性を持たせてね、ビジンダーをめぐる恋愛ドラマにね。ああいう枠で恋愛ドラマをやるなんてことは、当時としてはもの凄いことだったのよ。普通のドラマで恋愛を描くのは嫌いだけど、あのジャンルでは前例が無かっただけにね。

ヒーローは恋愛をしないような風潮があって、キカイダーは人間の心の二面性に、ずっと悩んで戦ってた。恋っていうのは人間的でもあるし、突っ込んでは描けなかった。そこで『01』ではたて糸に恋愛を置くと、『キカイダー』との完全な差が生まれる。そういう勝算もあったわけ。

ただゼロワンとビジンダーじゃすぐうまくいっちゃうんで、ワルダーっていうフェアで、ビジンダーのことが好きで、ゼロワンもどこかで認めている所がある、そういうキャラクターを出すことで、ゼロワンとビジンダーの関係が際立つし、

ゼロワンとワルダーの個性の差がまた面白くなるんじゃないかって思ったんだ。だからワルダーが出てきた時っていうのは、俺は大喜びだったわけだよ」

聞き手;
「ではお気に入りのキャラクターは、やはり・・・」

長坂氏;
「そう、ワルダーだね。彼にサムライ言葉をしゃべらせることにしたのも俺だし、石ノ森さんのデザイン=素材にいろいろ自分で考えてくっつけていくのが面白かったな。このキャラは自分で創ったっていう自負があるよ。だから思い入れもある。作品としても、『キカイダー01』は愛着がある。俺の土俵だと思っているよ。

『キカイダー』の時は立ち上げたあと途中から入ったから、自分の土俵に持っていくまでに時間がかかった。でも『ゼロワン』になってからは、おれが始めた、俺の土俵だって認識があった。プロデューサー達も、そんなにうるさく言わなかったよ。

おれが楽しんで書いている、よほど不都合が生じない限り、『面白ければいいじゃないか』っていうことでね。平山(亨)さんが割と面白がる人だからね、『キカイダー』と『キカイダー01』それに『快傑ズバット(77年)』は、非常に楽しんでやれた。

設定とかがガッチリと決まっていると、あまりいじれないんだよね。そこを『01』や『ズバット』は、いじれたように思えるんだ。キャラクターに、クセをつけることも出来た。NHKの大河ドラマ並みの大長編をやった気持ちがあるのよ。あそこまでやれたのは、俺だけだと思ってる。

いまでも時間と予算があれば、また喜んであのくらいの作品を創ってみたいと思うよ。石ノ森さんのデザインは素晴らしかった。ものすごい勉強家で、ものすごいデッサン力を持っていた。いちど俺の原作でデザインをやってもらって、作品を作ってみたかったね」

聞き手;
「それは是非とも、見てみたかったですね」

長坂氏;
「S・スピルバーグがすごいのは、工夫すること。考えついたビジュアルイメージをちゃんと再現するスピルバーグは、素晴らしい。恐竜の足音でコップの水が振動するとか、鼻息で窓が曇るとか、日本の怪獣映画でやってないことを、彼はやってるからね。

SFとか怪獣ものをやる人には、いつもそういう発見をして行ってほしいと思う。『仮面ライダーブラック(87年)』をたまたま観て、質感が凄いと思ってビックリしちゃってね。画が素晴らしくよく出来てた、霧の中からライダーが出てくるとか。スーツも昔とは違って技術が上がっているし。

黒がしびれるほどいいんだよなぁ。寝転がって観てたのが、パっと起きちゃうくらい。斎藤さん(当時東映プロデューサー)に電話して、『BLACKのスタッフとやりたい』と言ったこともあったんだ」  (おわり)


★★★★★★★★★★★★★★★★
『キカイダー01』は、前作『人造人間キカイダー』の正式な続編として企画され、『キカイダー』の製作途中から、別班で『01』製作は始まっていく。だが、制作・放送するまでにはクリアすべき大問題があった。1つ目は予算面。

子供向け番組の常識的時間枠である18時~20時に比べ、20時~21時という枠はスポンサー料が高いということである。スポンサー料が高ければスポンサーが付きにくいということにつながり、それは番組制作費用の捻出が困難になることになる。

そして2つ目は、企画制作から放送までの準備期間が足りないということだった。制作決定が73年初頭で放送は同年5月から。敵キャラクターの設定やコスチューム製作が、遅々として進まないのだ。苦悩するスタッフに妙案をだしたのが、今回登場したメイン脚本家・長坂氏だった。

前回の内容で紹介したように、余ったスーツに色を塗って使用した『ハカイダー4人衆』の出現である。これにより『キカイダー』撮影班が撮影終了するまでの時間稼ぎができたわけである。『01』撮影班にスタッフが合流してからは、新しい敵キャラ・シャドウが登場してくる。

キャラクター製作にはダーク破壊部隊のスーツ改造により、お金をかけ無いという資金面の問題もある程度クリアできたことになる。同年10月から『イナズマン』の撮影が始まり伴大介氏の『01』への出演が難しくなると、こんどは女性版ジローともいえる『ビジンダー』の登場、

それにワルダー、敵・シャドウとの戦いが絡み、複雑ながら面白い様相を呈するのである。そしてここで試されたことが、1年後に長坂氏をメインにした特撮ヒーロー番組、『アクマイザー3』で存分に活かされることになる。

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人造人間キカイダー(12) うえだ峻氏~ハンペンと言うのは、スタッフが自由に遊びながら作ってくれたキャラクターですね! [キカイダー対談・2]

1972年に放映された特撮テレビドラマ『人造人間キカイダー』で、私立探偵のハンペンこと服部半平役を演じたのが、うえだ峻氏。その後も数多くの東映特撮番組に怪人の人間体役などでゲスト出演した。お笑い界の大御所・伊東四朗氏が「キカイダー」を見て「植田峻はよかった」と絶賛していたという。

他の番組ではその持ち味が活かされてないと感じた伊東氏は、『「キカイダー」を見直せ。キカイダーの服部半平は、植田峻の持ち味そのものだ』と注意したことがあるという。
では、うえだ峻氏インタビューをどうぞ。


★★★★★★★★★★★★
聞き手;
「服部半平はいわゆる「和み」キャラということもありますが、かなり遊びの要素が強いキャラクターでした」

うえだ氏;
「僕のやったハンペン(服部半平)と言うキャラクターは、石の森先生をはじめ、監督、衣装、小道具と、色々なスタッフがそれぞれのセクションで中に遊びながら創ってくれたキャラクターだと思うんです。演じたのはボクですけど、スタッフがやってみたいと思うことを集約したキャラだと言ってもいいでしょうね。

小道具など、僕がリクエストしてやらせてもらったことも2、3回ありますが、そのあとは僕が考える以上のものをスタッフが揃えてくださるようになりました。ボクも毎回毎回楽しませてもらいました」

聞き手;
「うえださん自身も、実に楽しそうに演じているのがわかります」

うえだ氏;
「伴(大介)君にも「いいなぁ、楽しそうにやってて」と羨ましがられました。でもボクに言わせれば、君は主役じゃないかと(笑)」

聞き手;
「コスチュームも多彩でしたね」

うえだ氏;
「そうでしたね。一応シャーロック・ホームズ風のものが定番でしたけど、毎回のように変装シーンがあったので、いろいろな衣装をつけましたね。伴君は言ってましたよ。「俺はいつも一緒でつまらないよ」って」

聞き手;
「女装もされましたね」

うえだ氏;
「あれは恥ずかしかった~(笑)。衣装といえば、たしかブラックホースをいうロボットがでた回だったかな、僕あのロボットの着ぐるみを着て競馬場を半周させられたことがありましたよ。半周といっても競馬場ですからね。休んでもイイからとにかくここまで来てください。

休んだ所はコマ落としで処理しますからと言われて・・・いや、ビックリしましたよ。あれは忘れられない、辛い思い出ですね。あれでアクションをやる人の大変さが、解りましたよ」

聞き手;
「一番辛かったことは何でしょう?」

うえだ氏;
「そうですねぇ、たとえば僕の出番がその日の夕方近くだと判っていても、他の人達と一緒に早朝から出かけなくちゃいけなかったことかな。ロケ現場に着いても、ずーっと待っていなくちゃいけないでしょ。

待つと言ったって、大抵は青梅(おうめ)などの山の中ですからね、暇の潰しようが無いんです。僕が行くのは昼過ぎでもいいんじゃないかなとも思ったんですけど、経費とかの都合でそうもいかなかったみたいです。

一度、新宿の歌舞伎町でロケしたことがあります。モモイロアルマジロというロボットが出てくる回でしたね。あの時は恥ずかしかった。何しろあのホームズの格好でしたからね、目立つ目立つ(笑)」

聞き手;
「キカイダーは、地方ロケが多い作品でしたね」

うえだ氏;
「いろいろなところへ行きましたね。鳥取の皆生温泉(かいけおんせん)、水上温泉、伊豆とかね。アフレコをする時だけ東京へ戻って、また地方へと言う生活でした」

聞き手;
「共演の方々との思い出は?」

うえだ氏;
「一番よく話をしたのは、伴君ですね。ふたりともまだ若くて生意気なところもあって、「今度は文芸物に出たい」とかなんとか話してました。そしたらある日、助監督に怒られまして。「今日の反省もしてないくせに、何を言ってるんだ!」と。

確かにそうなんですよね。でも正直な話、当時の僕らにはこの作品が、その後20年、30年も支持される作品になるとは予想できなかった部分もあるんです。水の江(じゅん)さんは、今頃は良いお母さんになっているのかな。

神谷(政浩)君とはこの前西武線の中で偶然逢ったんですけど、一瞬分らなかったですね。だって背もすごく高くなってましたからね。思わず「いやぁ、大きくなったねぇ」と言ってしまいました(笑)。伊豆(肇)さんは東宝の大スターだった人だけど、どこか不思議なムードを持っている人でしたね。

安藤(三男)さんとはアフレコでお会いするだけでしたが、「セットの中ばかりだから、たまには外に出たいよ」とボヤいておられたのが印象的でした。サブローを演じた真山(譲次)君は、キリッとした良い役者でした。もう辞めてしまったと聞いて、残念に思いました」  (つづく)

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