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ご他界された方々を偲んで【第十二回】 [偲んで]

【ご他界された特撮関係の方々を偲んで】と題して、仮面ライダー1号、2号、そしてV3にご出演されたレギュラー・準レギュラーの俳優さん、ショッカー・ゲルショッカー・デストロン怪人の声を演じた声優さんなどを中心に、ご紹介させていただきます。

声優陣という枠組みでご紹介する第二回目に登場されるお方は、当たり役(はまり役)がいくつもあって、声優界の重鎮という言葉がピッタリのお方です。そして、このお方も「仮面ライダーシリーズ」には絶対に外せないお方です。

【第十二回】 
納谷 悟朗(なや ごろう)
2013年3月5日没(享年83)

納谷悟朗(なや・ごろう)氏は、日本の俳優、声優、ナレーター、舞台演出家。テアトル・エコーに所属し、取締役も務めていました。弟は俳優で声優の納谷六朗、妻は女優で声優の火野カチ子。

妻の火野カチ子氏は、テアトル・エコー所属で現役の舞台女優・声優さんです(2023年8月5日現在)。2013年に夫・納谷悟朗氏が他界した後も、舞台にアフレコにとご活躍中です。実弟の納谷六朗(なや・ろくろう)氏は、最終所属はマウスプロモーション。残念なことに、2014年10月に自宅で体調不良を訴えて都内の病院に入院、同年11月17日に他界しています。享年82

《俳優・声優としてのキャリア》
大学へ進学した納谷悟朗氏は、勉学のかたわら、空手部、野球部で身体を鍛えていましたが、演劇部から共通語(東京弁)の方言指導を頼まれたことがきっかけで芝居の面白さを知り、後に舞台演出や出演もするようになったそうです。

1951年12月に大学を中退した納谷氏は、児童劇団「東童」に入団します。1952年、23歳の時に初めてNHKのラジオに出演、その後は民放のラジオ局への出演回数が急激に増えはじめます。児童劇団東童の主宰者・宮津博(みやづ・ひろし)が開局したばかりの「日本テレビ」の顧問に就任してからは、他の東童のメンバーと共に劇団ぐるみで同局への出演機会が多くなりました。

この頃、日本テレビで大道具係だった熊倉一雄(日本の俳優、声優、演出家。テアトル・エコー所属)と知り合い、意気投合したことで交友関係が生まれたといいます。1955年、児童劇に限界を感じたことから東童を退団した納谷悟朗氏は、1959年1月、熊倉に誘われたことでテアトル・エコーに所属します。

テアトル・エコー入団時、テレビ放映の吹き替えで新劇俳優が起用されることが多く、納谷氏もこうした中で「アテレコ」に多用され、30歳少し前くらいに声優としての活動を開始します。

最初のアテレコ作品は、テレビ映画『地方検事』の鑑識官役。テレビドラマにも出演しましたが、拘束日数の長さを事務所が嫌がった結果、自然と【声の仕事】が増えたそうです。

「当時は声の吹き替えのできる俳優が少なかったので、とにかく忙しかった。現場であわせるのは同じ顔ばかりだった」と、当時を振り返り語っています。しかし、「メイクも衣装も不要」で手軽な「声の出演」に対する現場での扱いは悪く、当時のギャランティーは通常の70%のレートで不本意だったそうです。ですが、忙しかったのでお金は稼げたそうです。

《特色》
テレビ草創期からアニメや洋画の吹き替え、ナレーションで活動してきた納谷悟朗氏。テアトル・エコーの看板俳優として多くの舞台に出演しました。元々の地声は濁りのない声質で、代表作の銭形警部(ルパン三世)役については、「二枚目の声で演じていたら現在まで持たなかっただろう」と語っています。

役柄では、屈強な男(チャールトン・ヘストンの吹き替え)や『仮面ライダー』のショッカー首領のような悪の組織のボス、威厳ある役を演じることが多かったですが、一方で正義のヒーロー(ウルトラマンエース)に代表されるような善玉や若々しい青年の役も多く、他にも喜劇的な小悪党など幅広い役をこなしていました。

ナレーションが好きだといい、一時期はナレーションの仕事への起用を要望していた納谷悟朗氏。ナレーションというものに興味が元々あったとされ、初挑戦したナレーション業は特撮「愛の戦士レインボーマン」でした。その頃は上手いナレーターが多く、その中に食い込むことは難しかったといいます。そのため、個性を出すべく流暢にしゃべるのではなくリズムを区切るようにし、後年ではこのしゃべり方が「納谷節」と称されるようになりました。

《仕事に対する姿勢》
舞台に関して、「生でその日その日のお客さんと勝負をする」こと、「公演後には何も残らない」という潔い部分があることが好きで没頭したといいます。

声優の仕事に対しては、自身の本職は舞台俳優との考えから「本命の舞台を維持するために行う稼げる商売」と割り切っていたそうです。だからと言って妥協は一切せず全力投球で挑んでいたといい、「僕は舞台の役を与えられたのと同じ感覚でやっていましたよ。違うのはお客さんが目の前にいないということだけです」と語っていたそうです。「声の仕事も役者の仕事の一環」という姿勢から「声優」と呼ばれることには抵抗を持っていたとも。

《仮面ライダーシリーズ》
『仮面ライダー』のショッカー首領役は、非情さと威厳を併せ持つ「怖くて強くて絶対だ」とのイメージで演じたそうです。後年はスペシャルゲストのような形での作品参加が増え、「『大首領の声で』と言われる仕事も多くなり、ありがたいことだと思ってやっています」とも。

ショッカー首領の台詞は大抵抜き録りで、他の役者たちの昼休み前に行い、一言二言で終わることが多かったそうです。怪人役の他の同僚が数本まとめ録りで長時間拘束されているなか、納谷氏だけさっさと帰ってしまうので、「やっぱり首領は違うよな」とやっかみ半分の声がよく挙がったそうです(笑)

抜き録りとは・・・キャラクターや登場人物の台詞を個別に抜き出して、別々に録音する方法。これにより、アフレコ参加できなかった声優の出演部分を個別にレコーディングして、予定を遅らせずに製作をすすめることができる。この方法によって、多忙な人気声優や俳優などのキャスティングも可能になった

『仮面ライダー』以後も、納谷氏は仮面ライダーシリーズで悪の首領役を多く演じたことはご存じのとおり。だが、『仮面ライダーアマゾン』では、自ら望んでナレーションを務めたそうです。また、『仮面ライダー』のパロディ作品である『仮面ノリダー』にも、ナレーションでゲスト出演しました。

《闘病・死去》
1985年3月、胃潰瘍で入院し胃腸を半分切除する手術を行いましたが、術後も容態が改善しなかったため、後日全摘の手術を行っています。それ以降、体力の低下から声が出しにくくなったそうです。その後も胃癌などの手術を経験し、体力的に無理のない範囲で仕事を続けていましたが、2008年の舞台公演中に視覚の違和感を覚え、脳梗塞が判明。完治が困難との診断を機に、舞台俳優業を引退します。その後は妻の助力を得て声優業のみを継続していましたが、2013年3月5日、慢性呼吸不全のため千葉市内の自宅で逝去されました。

改めまして、故人様のご冥福をお祈りいたします(合掌)


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《ルパン三世》
『ルパン三世』ではテレビシリーズの第1作から2010年に放送された『ルパン三世 the Last Job』までの39年間、銭形警部の声を担当していた納谷悟朗氏。これは50年間に渡り次元大介の声を担当していた小林清志に次ぐ長さでした。

演出家のおおすみ正秋は『ルパン三世 パイロットフィルム』のキャスティングの際、「(納谷は)演ってもらう人たちの中でも一番ハードボイルドな雰囲気が出せる人でね。クールな五右ェ門の役以外は考えられなかった」と石川五右ェ門役にキャスティングしたのですが、納谷氏は台詞が少ないからと自ら銭形警部役を希望して変更になったといいます。

納谷氏は銭形警部を「途中でああいうキャラクターをつくったんですよね」と語ったことがある。本来の銭形警部は絵柄をはじめ二枚目の要素が強かったが、登場人物が次元大介を始めクールなキャラばかりなことに懸念を抱いたことからスタッフや原作者のモンキー・パンチと話し合い、三枚目の要素が強いアニメ独自の銭形警部のキャラクターが誕生したということのようです。

納谷悟朗氏は銭形警部について、「ルパンを追うことに全てをかける一途さが好きだ」と述べており、「『逮捕だ!』と言っているのは口先だけで、ルパンとの追いかけっこを楽しんでいるんじゃないか」「この純粋さが、人生に色々悩みを持っている僕にはとても羨ましいんだよ」と語っていたそうです。

長年銭形警部を担当していたこともあり、晩年には「銭形はいつまでも歳を取らないけど僕は年々歳を取っていくので、(歳を取らないキャラに)合わせるのが少し辛いですね」と語っていました。なお、銭形の声は2011年放送の『ルパン三世 血の刻印 〜永遠のMermaid〜』から山寺宏一が担当となりましたが、今後も機会があれば銭形警部役を演じたいとも語っていたそうです。

初代ルパン三世役だった山田康雄とは、所属するテアトル・エコーのほぼ同期であり、親交がありました。『ルパン三世』以外にも多くの作品で共演していたため、ルパンと銭形のやりとりは「ごく自然に呼吸が合った」といいます。若い頃は千葉県の上総湊(かずさみなと)にある海の家を一緒に借りて、アフレコが終わるとその家でいろいろ遊んでいたこともあると語っていました。

そのため「互いに老けてヨボヨボになっても、ルパンと銭形の追いかけっこを続けよう」とよく語り合ったといい、1995年に山田が死去した際に、葬儀の弔辞を担当した納谷氏は山田の早世を惜しみ、遺影に向かい銭形の口調で、「おい、ルパン。これから俺は誰を追い続ければいいんだ!?」「お前が死んだら俺は誰を追いかけりゃいいんだ!?」などと涙ながらに呼びかけていたそうです。

山田からルパン役を引き継いだ栗田貫一のこともサポートしていた納谷氏。栗田は初収録の際、「お前でいいんだ。やってくれ」と納谷氏から温かい言葉をかけられたおかげで収録に臨めたと後に語っています。納谷氏は栗田に対し、「ものまね出身の方だし、長い台詞などお芝居になるとちょっと辛い部分もある」としつつも、「今までの作品を滅茶苦茶に見て、ヤスベエ(山田康雄の愛称)の持つ細かいニュアンスを再現している」「こんなに熱心に一生懸命やるのにはびっくりしました」と評しています。

栗田が初登板した翌年の1996年には、「ヤスベエとは一味また違う、やり取りが生まれてきている感じです」「もう感傷には浸っていられない。新たなルパン像を追って頑張りたいと思います」とコメントしていました。また、栗田と小林が収録中の出来事でもめた際は納谷氏が仲裁に入り、栗田が作品の主演であるという責任感を感じさせるきっかけを作ったのも納谷氏でした。その後納谷氏が亡くなり、行われた「お別れの会」で、栗田はルパンの口調で「とっつあん、さみしいねぇ、ずっと追いかけてもらいたかったぜ」と惜別の言葉を送っています。


《宇宙戦艦ヤマト》
『宇宙戦艦ヤマト』ではヤマト艦長の沖田十三を演じた納谷氏。沖田の声を担当した当時の納谷氏は40代であり、「なんでこんな老け役をやらなきゃいけないんだ」と不満に思っていたこともあったそうです。最初のアフレコの頃は沖田を70代ぐらいのキャラクターだと思って喋っていたといいます。しかし、後に「艦長ということは70代なんてことはあり得ない」と感じるようになり、「現役の艦長だったら50代くらいだから、もっと若くやればよかった」と心残りになっているそうです。

この作品が声優ブームのきっかけになったこともあり、当時はよくファンがアフレコスタジオの外で出待ちをしていたこともあったという。しかし、納谷氏は「キャラクターの声を当てているだけであり、それがスターみたいな扱いをされるのは不思議でしょうがなかった」とも語っています。

インタビューで「若い人たちに『宇宙戦艦ヤマト』をどう見てもらいたいか」という質問には、「今は戦争を知らない人が大半ですから、若い人がどう感じるかはわからないけど、『ヤマト』を見て、平和の大切さを感じてもらえるといいと思いますね」と答えています。



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