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実相寺監督と生まれ故郷は「円谷プロ」 [実相寺監督が語るウルトラ2]

(きぬた)にある円谷プロ界わいの風景は、あまり変わっていない。と言いたいところだが、やはり歳月は景観を放ってはおかない。円谷プロ社屋の佇まいが昔のままなので、ちょっと見にはそういった印象を与える。でも時の流れは着実に一木一草にも浸透している。

監督が円谷プロへ通い始めたのは、40年(この書籍を発表当時)にもなろうかと言うほどの昔だが、その折の制作部や文芸部の建物がそっくり残っている。この建物はもともと京都衣装が入っていたものだ。

かの金城哲夫さんや上原正三さんが君臨していた円谷プロの核心であった文芸部があったあたりは、もともと衣装倉庫だったらしい。今やその倉庫を、あふれんばかりの怪獣達やウルトラマン一家が占領している。それだから、往時を偲ぶ縁が色濃く残っているという印象になる。

『時が止まっているようで、うれしいなぁ』などと口にしていたら、満田さんから『そんなことはないよ。ずいぶん変わっているよ。よくみてごらんなさいよ、便所だってきれいになったでしょう』とからかわれてしまった。

確かに建物内部は手入れされ、基本的な構造を除き各部の配置も違っている。外観も近年の発展につれ入口が変わり、変化を遂げている。さらに周辺の家を呑み込んで、円谷プロの本体はかなり大きく翼を伸ばしていたのである。

東京五輪も終わった1964年の11月ごろ、円谷プロでは「ウルトラQ」の撮影に活気があふれていた。この「ウルトラQ」で、実相寺監督は特撮と本編の合体する作品に初めて接したのだった。脚本を書くことで、そのシリーズへ加わった。もっとも結果的に脚本は出来上がったが、撮影には至らなかった。だがこの脚本が縁で、長いお付き合いをさせてもらうことになった。

ちなみに、その脚本の題名は「キリがない」「バクたる」の2本である。「キリがない」の方は準備稿の台本も刷り上がり、ロケハンの段階に進んでいたが、あまりにエンドレスで怪獣が再生するので、費用面で製作中止になったと言われた。今にして思えば残念である。監督は“カネゴン”の中川晴之助さんが予定されていた。

実相寺監督を円谷プロへ出入りさせてくれたのは、英二監督のご長男の円谷 一さんで、TBSテレビ演出部の先輩である。一さんは大の車好きで、セドリックを乗り回していた。『ウルトラマン』の頃には、オペルに愛車を変えていた。一さんは、運転席を照らすスポットライトにドイツ工学の良さを力説し、デザインや角度の心配りに素晴らしいものを感じると言っていた。

『ちょっとしたアイデアって奴は、特撮に通じるものだね』 『どうってことないと思う』と反論すると、『ディテールの機微が解らなくちゃ、特撮物は無理だよ』と大きく鼻を膨らませて、嬉しそうに笑った。

そんな会話が懐かしく思い出される。でも円谷プロへ行くと、そんな会話が過去の遺物ではないと思わせる雰囲気に満ち溢れているから、不思議である。

『ウルトラマン』の頃には、監督は車をオンボロだったヒルマンからプリンス・スカイライン1500に乗り換えていた。友人から中古を譲り受けたものだったが、この車は“ジャミラ”の回に出演している。

“スカイドン”にもちょっと出てくる。“ジャミラ”の時は、監督自ら運転して出演をした。見えない宇宙船の事件が起きる巻頭の部分である。   (つづく)


★★★★★★★★★★★★
なんとなくではあるが、今回はワクワクしている。たぶん、在りし日の「円谷プロ」の様子が書かれているからだろう。在りし日の、と書いたのはすでにご存じのことと思うが、円谷プロダクションはすでにひとり立ちできない会社になってしまっている。ある会社の傘下に入っているということである。英二氏が知ったら、さぞ嘆くことだろう(もっとも天国の英二氏は、何もかもご存じであろうが)。立派な財産である「ウルトラ」が、円谷のものであってそうではない。なんとも悲しいことである。すでに砧の地に、円谷プロダクションはもう無い。



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