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実相寺監督と銀座の柳が消えた年 [実相寺監督が語るウルトラ2]

座の柳が消えたのは、昭和43年だ。『ウルトラセブン』の年、つまり昭和42年に、銀座4丁目から新橋までの長い移動ショットを撮影したことがある。岸恵子さん主演の『レモンのような女』第三話のラストカットだが、なんとも大胆なことをしたものだ。もちろん、特撮物ではない。このシリーズは、『ウルトラマン』が終わった直後に取り掛かった作品だ。

ウルトラマンには、いわば、柳が消える前の時代の匂いが反映されていると思う。霞が関ビルが建ち、『超高層のあけぼの』という映画が生まれ、身の回りの景色が大胆に塗り変えられていく時代の中で、ウルトラマンは誕生したのである。東京オリンピックが街をぶち壊す要因を作ったが、高速道路が東京を醜く変え、堀と水の抹殺し、新宿副都心建設の槌音が響きはじめたのも、ウルトラマンの風景と密接している。

首都高速道路が、濠や川といった水路を台無しにしたことは、取り返しがつかないことの様に思える。せめて、道路元標のある日本橋あたりだけでも、川の上に空を取り戻せないのだろうか。高速道路構築物の寿命が来て、ようやく、最近何か新しい動きがあるようだが、あの日本橋にのしかかる高速道路は、日本の恥である。

東京同様に戦争で破壊されたドイツの市街地では、必ず旧景に戻しているところが多い。街というものは、経済効率と地球温暖化の尖兵自動車の蹂躙にまかせてはいけない。あの市街戦で完膚なきまでに破壊されたベルリンですら、都市発祥の地、シュプレー川沿いの一郭ニコライ地区は、きちんと保存されている。東京にも、そんな地区があるといい。

日本橋なんかは、その絶好の拠点である。新しいことは、かまびすしい(*)ことは、臨海へ追い出せばいいのじゃないか。歴史が息づき、時間がつながって感じられる区域が欲しい。これは、見果てぬ夢である。(*)やかましい、騒がしい

ウルトラマンをやっているときには、環状8号線が世田谷を分断していなかった。東名高速の用賀インターも、存在していない。二子玉川のショッピングセンターも、出現していなかった。それらが徐々に形を表してきたのは、円谷プロ作品でいえば『怪奇大作戦』あたりからである。

“消えた風景”の空気感が『ウルトラマン』という作品であり、怪獣たちだったと思う。とりわけ怪獣たちは、消えた風景そのものだったと、思わずにはいられない。監督たちスタッフは、怪獣に、ある時代風景を投影してきたのである。

そんな時代の匂いを、現在との対比で、どう実感してもらおうかと思ったが、ウルトラマンの監督が、当時いくらお金をもらっていたかという記録を、記すことにした。フリーの立場でウルトラに関わった監督のことは、わからない。実相寺監督はTBSからの社外出向監督だったので、当時のテレビ局ディレクターの給料を知ってもらうことになる。

ガヴァドンやガマクジラに関わり始めたころ、つまり昭和41年7月の給料明細が手元にある。それによると、基本給43400円、時間外手当16400円、さらに手当加算17000円があり、合計76800円。社会保険料が引かれ課税対象額は、72613円。所得税、住民税、組合費、厚生会費が引かれて、手取り支給額が57460円となっている。

この金額で、当時は扶養家族が無かったし、家賃もいらない状態だったから、恵まれていた方だろう。他の職業の29歳と比べて、テレビディレクターの給与水準は、どうだったのだろうか?ただ労働時間からいえば、それほど高くはないと思う。

ちなみに、当時の日本映画封切館の入場料は500円。タクシー初乗りが100円、地下鉄初乗りが30円、都電が15円、郵便はがき代7円であった。こういった比較もいいが、撮影用の怪獣一体の値段はいくらだったのか?(デザイン料は別にして)を知りたくなり、デザイナーの池谷仙克くんに聞いたところ、『当時は15万円くらいじゃなかったかなぁ。高山良作さんクラスになると、もっと高かったかもしれない』という。

『じゃあ、現在は?』 『材料も工程も違うし、デザインにもよるけれど、150万ぐらいはするでしょうね』 『うわぁ、10倍かぁ!』 『でもテレビ放映用じゃなかったら、例えばコマーシャルや本編(劇場用映画)だったら、その倍、300万は下らないんじゃないかなぁ』首のすげ替えや改造といったこともわからぬでもないなと、ため息をついてしまう。  (つづく)


★★★★★★★★★★★★
今回は、非常に興味をそそられる内容になっていたように思う。着ぐるみの金額は、高山良作さんクラスになると値が張るのは仕方がない。あの出来映えをみたら、納得がいこうというものである。最近は技術の向上や材料が良くなったことなどがあって、出来映えが良いものが多い。
ただ筆者の思うところを言うと、例えばレッドキングのような人気怪獣を、今の技術や材料で作った物を雑誌などで見かけると、昔の材質に比べて、とてもよく出来過ぎている感じがする。比較の例でいえば、昔がアナログなら、今がCGのような感じに感じるのだが。
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実相寺監督と円谷プロへ続く道 [実相寺監督が語るウルトラ2]

は歩くに限るので、祖師ヶ谷大蔵の駅から円谷プロへ行くことにした。改札口を出て南へ行く狭い一方通行の道が、円谷プロや東宝撮影所へ通ずる商店街である。その駅周辺は、著しく変わっている。まず、小田急線が複々線工事で高架になった。

この本を書き直している平成14年秋の時点では、工事はまだ完成していない。当時、一さん(円谷一)や金ちゃん(金城哲夫)や、高野さん(高野宏一)やスタッフ仲間と入った喫茶店も、バーも消えている。

城山通りが延びて、駅の傍らを横切っている。スタッフとかよったビリヤードや麻雀屋の所在もわからない。この駅周辺、とりわけ円谷家があった北側にも、懐かしい拠点がたくさんあった。

円谷プロとの、いや円谷英二監督とのご縁ができた番組『現代の主役/ウルトラQのおやじ』を撮影したあの円谷家は、夢と消えてしまった。むかし円谷技術研究所があった一郭には、今でも一さんのご子息の昌弘さん一家が住まわれている。

が、ほとんどその周囲を駐車場に占拠され、往時のすてきな佇まいを想像するのはむずかしい。この円谷家から路地を東に入った所に、“花ぶさ”という旅館があった。映画関係者がしばしば利用していた場所である。

シナリオの打ち合わせやら、ライターを缶詰にして、執筆を促していた戦場でもあった。円谷の文芸部も、例外ではなかった。私も何度かその旅館に通っている。場所はかろうじて特定できる気がするが、もはや夢の在所を正確にさぐるのは無理だった。

駅の北側を離れて南へたどり、一路プロへと向かった。商店街もかなり様変わりしている。道自体の幅は、元のままという感じである。スーパーマーケットなどは変わっていて、商店街の店々も今様になっている。道の右手にある砧八公園は、今も緑濃い場所だ。

商店街が途切れプロに近づくと、元の国際放映、現在の東京メディアシティの方向へ、新しく道ができている。高層では無いから景観をさほど傷つけてはいないが、マンションが着実に増えている。砧(きぬた)界隈でお屋敷が連なっている辺りは、今なお住環境に恵まれているが、相続税の影響か、家々はかなり細分化されていた。

さて、円谷プロである。『ウルトラマン』の頃は、入口を入るとすぐ右手に制作部の大部屋があり、一切の管理をしていた本丸だった。そして左手にまっすぐ廊下が延びていて、その廊下の両側に、ネガ編集、ポジ編集、光学などの部屋があった。もっとも、その配置も度々変わっていたから、ある時期のことではあるが。

そして、その廊下から別棟をつなぐように数段高くなったところに、社長室、文芸部、試写室があったのだ。改めて訪ねてみると、活気は旧に勝っているほどで、若い社員の方々も多い。

右手の制作部と左手の廊下に面した、ちょうどネガ編集室があった部屋との障壁が取り払われ、カギ形にひとつの部屋ができており、キャラクターグッズの見本がたくさん置かれていて、夢の場所に来たという印象を強くした。

内部はすべてきれいに手が入れられているが、いまにも扉を開けて、鬼籍に入った方々も含めて昔のままのスタッフが飛び出してきても、おかしくない雰囲気を保っている。  (つづく)


★★★★★★★★★★★★
円谷英二氏が生きていた頃の円谷プロ、金城哲夫氏が在籍していた頃の円谷プロは、特撮という技を武器に、素晴らしい作品を次から次へと生み出していったことは、この時期に作られた作品の人気の高さが証明済みである。何と言っても、ドラマの背骨である「脚本」の質の高さが、ドラマの良し悪しを決めることは間違いない。

だが1話完結を基本とするドラマで、30分間でストーリーを分かり易く締めくくることの難しさ。そこで、脚本を分かり易く映像化する監督の手腕が求められる。そういった要素がすべてそろって、面白いドラマは生まれると思う。脚本の質、監督の手腕、このどちらも一流だったのが、あの頃の円谷プロだったのだ。そして良質の映像を僕達子供にみせるために、ドラマを監修する円谷英二氏の鋭い目が光っていた。

こういった先輩たちが培ってきた空気・雰囲気は、いつまでも円谷社風として、残していってほしいと願っている。

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実相寺監督と円谷プロは懐かしき思い出 [実相寺監督が語るウルトラ2]

時の円谷プロには、なんとなく分教場の教員室という雰囲気があった。木造校舎と同じ匂いを嗅いだものである。商談に訪れる人も少なく、のんびりとした雰囲気だったのである。居心地もよかった。ただウルトラシリーズで各監督が使用したフィルムの使用量を表示したグラフが貼られており、それが私にはちょっぴりイマイマしかった。35ミリと16ミリのそれぞれの監督別フィート数が明記されており、弁解のしようがなかった。

『だって合成用の35ミリの方が極端に少ないから、いいでしょう。16ミリの方は大目に見てくださいよ』と、私は抗弁していた。実は飯島敏宏監督のように、合成のアイデアが働かなかっただけなのである。合成が下手だったのだ。

現在の円谷プロを案内してくださった円谷一夫さんから、元の制作部の部屋に、昔からのモノが残っている、と教えられた。それは、『ウルトラ』などの撮影スケジュールが書かれていた黒板である。加えて、まるで役場か教員室にあるような、壁掛け時計も残っていた。このふたつが、タイムトラベルへのお膳立てを整えていたわけだ。

編集部は応接間へ、光学室は社長室へと変化しているが、ここは紛れもなく、『ウルトラ』の本部であり続けていた。一番奥の試写室には、編集の小林熙昌(きよし)さんが大事に保管した、英二さんの35ミリ編集機(筆者談;これがあの有名なオプチカルプリンターのことだと思う)もあった。さらには、いくつかのラッシュ(*)も保存されているようだった。

(*)編集作業の完了していない映画のフィルム(陽画)。明暗や色調が、被写体と同じ画像・画面のもの。ポジ。(⇔ネガ)

そういえば、この円谷プロ自体を撮影したことも思い出した。先刻触れた『現代の主役』シリーズというドキュメンタリー番組のひとつで、「ウルトラQのおやじ」というタイトルで、円谷英二さんを追ったものである。ちょうどおやじさんは、『サンダ対ガイラ』(昭和41年)の撮影中だった。

その番組の冒頭で、亡くなった金城哲夫さんをインタビュアーにした、円谷プロへ遊びに来る子供たちとのやりとりや、実景カットの積み重ねを撮影したのである。円谷プロを歩いていると、つい先ほどのことのように、情景がよみがえってくる。

『ウルトラセブン』の「狙われた街」のロケセットにも、円谷プロの一部を使っている。古びた木造の雰囲気が欲しかったので、この建物がピッタリだったのである。試写室を舞台に、警察の取調室のシーンを撮影したのだ。余談だが、衣装倉庫だったので、火気厳禁。とりわけ、この試写室のあったあたりは、冬になると寒かった。オーバーを着て、ラッシュや試写を見た記憶がある。

思い出は尽きない。それはウルトラという巨大な宇宙に夢を結んだ人達の生きた証(あかし)が、まだ息づいているからだろう。

さまざまな怪獣たちが所狭しと休む二階の倉庫脇には、補修のアトリエがある。そこには怪獣のお医者さんというか、メンテナンスの専門家で、事業部の打出親吾(うちで・しんご)さんが、熱心にイベント用のぬいぐるみを繕っていた。打出さんの作業を見ていると、傷ついたヒーローたちが不死鳥の如くよみがえってくる源が、わかるような気がする。

それは、特撮ものを愛してやまない根気だったのだ。倉庫をたずねた折には、あのテレスドンやシーボーズのぬいぐるみ(もちろん当時のものでは無い、イベント用のもの)たちが、次の出番を待って骨休めをしていた。ひさびさに彼らと対面して、わたしは本当にタイムスリップをしていた。

なにしろ、全ウルトラシリーズをはじめとして、円谷プロが生み出した膨大な怪獣・宇宙人たち、ヒーロー達の多くが、展示用・イベント用・撮影用を問わず、夢の散水夫としての活躍前に、翼を休めている場所なのである。その廊下を歩けば、乱歩ではないが、“うつし世はゆめ、円谷のゆめこそまこと”と思えてしまう。  (おわり)


★★★★★★★★★★★★
何度もいうが、返す返すも、円谷プロがひとりで立てなくなってしまったこと、独立プロでなくなったことを、残念に思う。特撮はお金がかかるとはいうものの、この業界を長年やってきて培ってきたモノがあるはずなので、どうにかできなかったのかと、つくづく思う。
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実相寺監督とウルトラ・カーその1 [実相寺監督が語るウルトラ2]

ルトラシリーズには、隊員たちが乗るウルトラ・カーが出てくる。鉄道が好きだった監督には、どうもこのウルトラ・カーがあまりお気に召さないようだった。なにが嫌だったか・・・それは読んでからのお楽しみである。


★★★★★★★★★★★★
私が子供の頃、時速100キロというのが一つの憧れだった。陸上を疾駆する乗り物では、何と言ってもスピードの象徴は“超特急つばめ号”だった。展望車付の豪華列車が大阪へ8時間で突っ走るイメージが、夢につながっていたのである。実際につばめ号が最高速度100キロで走っていたかどうかは知らないが、100キロという速さが夢のスピードであったことは確かである。ところが、現在では“時速100キロ”は夢の座から降ろされてしまった。

現在(この本が書かれた当時)のシンボルはJR西日本の500系新幹線である。最高時速300キロで疾走している。航空便との関係で、また速度競争が復活しかかっている。JR東日本も北海道を頭に入れながら、東北新幹線の更なる延伸に伴って、速度への挑戦に乗り出したようだ。東名高速などでふと気が付くと、自分の運転している車のメーターが、遥かに100キロを超えていることがある。そんな折に、時代のスピード感も大きく変化したのである。

でも不思議にウルトラシリーズでは、自動車だけはどうしようもない代物だった。「怪奇大作戦」のトータス号をそれに加えてもいい。各シリーズには、必ず隊員たちの利用する自動車が登場するのだが、「ウルトラマン」ではリアー・エンジンのコルベアー、次の「ウルトラセブン」のポインターはクライスラー改造であった。

ちなみに「怪奇大作戦」では、ぐっとおもむきが変わって、スバル360がベースである。トータスという名称だった。これが「ウルトラマンタロウ」のようなのちのシリーズになると、もっと異様というか、派手な改造を施されて登場しているから、そのあたりを担当した人達の苦労は大変なものだったろう。「ウルトラマンタロウ」のウルフ777にしろ、ラビットパンダにしろ、まあチンドン屋風のやけくそである。

でも今フィギュア屋で模型を手にすると、それもまたけっこう機能美の対極で面白い感じがする。すべて中古車を改造していたから、初期のシリーズの乗り物はロケ中によく故障をした。もっとも改造のせいばかりとは言えないかもしれない。最初のコルベアーなど、ほとんど原形のままで、ドアに科学特捜隊のマークを付けていただけだったから。それでも、調子の悪い車だった。

だからせっかちな私は、すぐに車が絡んだシーンを止めてしまったのである。後年「ウルトラマンダイナ」を撮った際、車のシーンについては、セットの人物ショットにつながる疾駆する全体像は、すべて劇画にしてしまった。加藤礼次朗君に作画をお願いしたのである。でも世間的には無視され、何の反応も無かった。まぁ私の回ばかりでなく、車がカッコ良く走っている情景はほとんどない。

だいたい怪獣や宇宙人は、そう都合よく舗装された道路状態の良い所に現れるわけではないから、劇用車を使う場合も、道なき道ということが多い。そうなると、ウルトラの車はお手上げだった。悪路にはめっぽう弱いので、何の役にも立たないのである。あれだけの組織で、進んだ技術を駆使している集団のくせに、自動車に関してだけはひどくお粗末だったのである。  (つづく)

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実相寺監督とウルトラ・カーその2 [実相寺監督が語るウルトラ2]

(前回から続き)
痴っぽくなるが、ロケの移動中にその劇用車に乗せられるのが、たまらずイヤだった。ロケバスの定員がイッパイで他の車に余裕が無いと、劇用車だからと製作部は監督を劇用車に乗せたがったのだ。外車でどうぞと気を遣ったつもりだろうが、迷惑この上なかった。見物のガキどもに囃された(はやされた)ものである。

なにしろ、人目に付いて仕方がないし故障はするしで、良いことは一つも無かった。とりわけ『ウルトラセブン』のクライスラー・インペリアル(ポインター号のこと)は、信号で止まるたびにジロジロと見られ、嘲笑され、恥ずかしいことこの上なかった。

どうも映画に出てくる改造車というのは、漫画的なものになる宿命を負っているようだ。その代表はバットマンカーかもしれない。あれはコミックの映画化として、すてきな形をしているのだが、お世辞にもカッコイイとは言えないだろう(筆者はどの映画のバットマンカーも、すごくカッコイイと思うのだが)。

 大なり小なり、特撮モノに出てくる映画のためにデザインされたモノは、機能美からは遠く離れている。空想を楽しむのだからそれでいいのだが、自動車だけがとりわけ珍妙な格好になるのは、なぜだろうか? 改造なんかしないで、そのまま作品に使えば格好が良いのに、と思うこともしばしばだ。

『ウルトラマンダイナ』だったか、ホンダの車に付加して、カッコよく未来的に見せようとボンネットの上にデザインされた武器らしき箱が載せられていたが、運転席からの視界も悪く、ただジャリ向きのデザインでしかなかた。元の車の方が機能的であり、そこからにじむ美しさを映像用のデザインが目茶苦茶にしていたのである。

映画の『ウルトラQ・ザ・ムービー 星の伝説』の折は、宇宙人の乗る車を市販のものに手を加えずに登場させた。ボルボの黒いスポーツワゴンを使ったのだ。候補として日産マキシマというのもあったが、借用上の都合でボルボになった。余計なものを削ぎ落としているデザインは、変に手を加えるよりも特撮モノには合っている。

円谷プロで初めて助監督をやった『スパイ・平行線の世界』という作品で、主人公が狙われる冒頭で車が塀に激突するシーンがある。主人公の乗るベンツが壁に追突して大破する設定であった。二台のカメラを使いスタントマンを依頼しての撮影だったが、なんと壁だけが壊れてベンツはビクともしなかった。

やり直しがきかず、監督の円谷一さんはいくつかアップを撮り足して、なんとかそのシーンをしのいだという記憶がある。丈夫な車も、ときには困りものである。こういったカーチェイスもどきのシーンはあんまり撮ったことがないが、『怪奇大作戦』の『恐怖の電話』の回で、追いかけ、激突し炎上というラストのクライマックスを、平和島あたりでおこなったことがある。

車との相性が悪いのか、とにかく車の撮影には必ずケチがついてしまうのだ。『恐怖の電話』の際も、とんでもないことになった。美術の連中が苦労して準備し、火薬の担当や操演の連中が激突する壁に細工をしている最中に、突然追いかけられる側の犯人の車が、壁に向かって暴走したのである。それで一巻の終わり。

なにしろカメラも準備中で、フィルムを詰めていた最中だったから撮影どころではない。どうにか、犯人の車の後部座席に手持ちで乗ってスタンバイしていた補佐のカメラの分だけが、回ったという結果だったのである。ほとんどのスタッフ、現場で待っていた俳優さんは、茫然としていた。私も夢を見ているような気分で、壁に向かって暴走し激突炎上する車を眺めているだけだった。

原因は高揚した気分の中で、全体のスタンバイOKを確かめずに、演出部の誰かがGO!の合図を出してしまったことだろう。車を運転するスタントマンの人と、旗でも使って綿密に合図を決めておけば、防ぐことができた事故である。幸い、人身事故が無かったからよかったようなものの、ひとつ間違えば、とんでもないことになるところだったのだ。

こういう場合は誰の責任ということではなく、気の回らなかった監督が悪いと言われても、仕方がない。車が激突したので壁が崩壊し、撮影は準備の一からやり直しになった。そのシーンは全部が夜景のつもりだったが、壁を修復し車を修理して、再び撮影ができる状態に戻った時は朝になっていた。

だから完成した作品では、車が炎上した後、それを見守るSRIの連中のグループショットなどは、すべて朝になってしまった。夕景ではない早朝ねらいが、徹夜のせいで実現したという按配である。まったくのお笑い草である。(つづく)


★★★★★★★★★★★★
監督は『ウルトラセブン』の撮影中、ロケバスに乗れずにポインター号にのって現場移動するのが嫌だったと言っているが、憧れのポインター号に乗れることはうらやましいことこの上ない(笑) 
あの車は解体寸前だった原形車をただ同然の値段で買ってきて改造したと満田監督が話しているとおり、走行には支障があったりしたようだが、何と言ってもあのデザインである。道に止まっていたりしたら、ジロジロ見られることは必至だ。でも世界に1台しかない、ポインター号である。羨ましいことに変わりはない。成田亨氏のデザイン画が常設されている青森県立美術館に行けば、本物が見られるらしい・・・。

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