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実相寺監督と円谷プロは懐かしき思い出 [実相寺監督が語るウルトラ2]

時の円谷プロには、なんとなく分教場の教員室という雰囲気があった。木造校舎と同じ匂いを嗅いだものである。商談に訪れる人も少なく、のんびりとした雰囲気だったのである。居心地もよかった。ただウルトラシリーズで各監督が使用したフィルムの使用量を表示したグラフが貼られており、それが私にはちょっぴりイマイマしかった。35ミリと16ミリのそれぞれの監督別フィート数が明記されており、弁解のしようがなかった。

『だって合成用の35ミリの方が極端に少ないから、いいでしょう。16ミリの方は大目に見てくださいよ』と、私は抗弁していた。実は飯島敏宏監督のように、合成のアイデアが働かなかっただけなのである。合成が下手だったのだ。

現在の円谷プロを案内してくださった円谷一夫さんから、元の制作部の部屋に、昔からのモノが残っている、と教えられた。それは、『ウルトラ』などの撮影スケジュールが書かれていた黒板である。加えて、まるで役場か教員室にあるような、壁掛け時計も残っていた。このふたつが、タイムトラベルへのお膳立てを整えていたわけだ。

編集部は応接間へ、光学室は社長室へと変化しているが、ここは紛れもなく、『ウルトラ』の本部であり続けていた。一番奥の試写室には、編集の小林熙昌(きよし)さんが大事に保管した、英二さんの35ミリ編集機(筆者談;これがあの有名なオプチカルプリンターのことだと思う)もあった。さらには、いくつかのラッシュ(*)も保存されているようだった。

(*)編集作業の完了していない映画のフィルム(陽画)。明暗や色調が、被写体と同じ画像・画面のもの。ポジ。(⇔ネガ)

そういえば、この円谷プロ自体を撮影したことも思い出した。先刻触れた『現代の主役』シリーズというドキュメンタリー番組のひとつで、「ウルトラQのおやじ」というタイトルで、円谷英二さんを追ったものである。ちょうどおやじさんは、『サンダ対ガイラ』(昭和41年)の撮影中だった。

その番組の冒頭で、亡くなった金城哲夫さんをインタビュアーにした、円谷プロへ遊びに来る子供たちとのやりとりや、実景カットの積み重ねを撮影したのである。円谷プロを歩いていると、つい先ほどのことのように、情景がよみがえってくる。

『ウルトラセブン』の「狙われた街」のロケセットにも、円谷プロの一部を使っている。古びた木造の雰囲気が欲しかったので、この建物がピッタリだったのである。試写室を舞台に、警察の取調室のシーンを撮影したのだ。余談だが、衣装倉庫だったので、火気厳禁。とりわけ、この試写室のあったあたりは、冬になると寒かった。オーバーを着て、ラッシュや試写を見た記憶がある。

思い出は尽きない。それはウルトラという巨大な宇宙に夢を結んだ人達の生きた証(あかし)が、まだ息づいているからだろう。

さまざまな怪獣たちが所狭しと休む二階の倉庫脇には、補修のアトリエがある。そこには怪獣のお医者さんというか、メンテナンスの専門家で、事業部の打出親吾(うちで・しんご)さんが、熱心にイベント用のぬいぐるみを繕っていた。打出さんの作業を見ていると、傷ついたヒーローたちが不死鳥の如くよみがえってくる源が、わかるような気がする。

それは、特撮ものを愛してやまない根気だったのだ。倉庫をたずねた折には、あのテレスドンやシーボーズのぬいぐるみ(もちろん当時のものでは無い、イベント用のもの)たちが、次の出番を待って骨休めをしていた。ひさびさに彼らと対面して、わたしは本当にタイムスリップをしていた。

なにしろ、全ウルトラシリーズをはじめとして、円谷プロが生み出した膨大な怪獣・宇宙人たち、ヒーロー達の多くが、展示用・イベント用・撮影用を問わず、夢の散水夫としての活躍前に、翼を休めている場所なのである。その廊下を歩けば、乱歩ではないが、“うつし世はゆめ、円谷のゆめこそまこと”と思えてしまう。  (おわり)


★★★★★★★★★★★★
何度もいうが、返す返すも、円谷プロがひとりで立てなくなってしまったこと、独立プロでなくなったことを、残念に思う。特撮はお金がかかるとはいうものの、この業界を長年やってきて培ってきたモノがあるはずなので、どうにかできなかったのかと、つくづく思う。


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