SSブログ
帰ってきたウルトラマンこぼれ話2 ブログトップ
前の5件 | 次の5件

帰ってきたウルトラマン(38) ~円谷スタッフが語る「新マン」秘話3 [帰ってきたウルトラマンこぼれ話2]

プロデューサー、監督、カメラマンらが語る、『帰ってきたウルトラマン』の秘話が続出。いろいろなこぼれ話も、多数あり!
第3回は、特技監督の大木 淳氏。たいへん残念なことに、大木淳氏は1996年12月に他界されていました。享年56。あまりにお若い死であります。大木淳氏の名は、見ていた特撮番組のほとんどにクレジットされていたので、名前はよく知っていましたが、詳しい所は知りませんでした。

本名は大木淳吉。氏は実相寺監督とコンビを組むことが多く、デビュー作の『ウルトラセブン』第8話「狙われた街」、欠番の第12話ほか、映画『帝都物語』、『ウルトラQ ザ・ムービー 星の伝説』の特撮監督を手がけました。

大木氏の死後、実相寺監督は『ウルトラマンティガ』の中で2作品(37話と40話)を、亡くなられた大木氏の為に制作、捧げていて、2作ともプロデューサーとして大木氏の名がクレジットされています。大木氏は本編監督をつとめたことも多く、その場合には実相寺氏の影響をうけた前衛的な映像が多かったようです。

改めまして、ご冥福をお祈りいたします(合掌)


★★★★★★★★★★★★
特撮やってて、やっぱり本編も通してやってみたいと言ってたら、たまたま円谷一さんがやらしてくれた。で、橋本さんと熊谷さんが機会を作ってくれて。『帰ってきたウルトラマン』っていうのは、何か本家帰りしたいような感じもしたんで、脚本は飯島さんにお願いしたいと思いました。あの脚本は本当に面白かった。

でも特撮部分っていうのは、本(脚本)が面白いと画になりにくいんです。ホンワカとして良い話だったんだけどね。特撮やるとき、前から殺陣師を入れて欲しいと言ってたんです。セブンのときかな、ボクは助手をやっていて、殺陣師に来てもらったんです。

でも40~50メートルあるウルトラマンの殺陣とかやったことが無いから、わからない。だから上手くいかなかったんです。きくちさんのときは、彼自身殺陣師だし、僕とやる頃はもう手馴れてたから、今日は羽根があるからこんな感じで飛ばしてとか、最後はバーンと行こうとか、大きいことだけきくちさんと打ち合わせして、あとはきくちさんに任せてました。

決してきくちさんのやり易いようにやってくれって感じではなかったけど。いろんな人がぬいぐるみに入ってたけど、その中では、きくちさんはインテリだと思いました。

仮面被ってコスチューム着てるわけで、顔出しと違って、自分の思いとか、こちらの要求に合っているか、そういうことをかなり気にしていた。そういう考え方をする人は、初めてだったんじゃないかな。そういう意味で言えば、インテリの弱さみたいなものもありました。

とにかく優しかった。外見はギャングの親分みたいだけど。ふつうの感覚の人というか、そんな感じでした。僕は、ぬいぐるみに専門の人という感じできくちさんや遠矢さんをみることはありませんでした。普通の役者がぬいぐるみに入っていると、考えてました。

よく見ると解ってもらえると思いますが、中に入っている人の人間性が一番わかるのが、きくちさんじゃないですか。まぁいろいろやってたけど、きくちさんの『帰ってきたウルトラマン』が一番好きですね。中身を知ってるから、それを想像してカッコイイと思っているのかな。


★★★★★★★★★★★★
筆者が小さい頃に見ていたほとんどの特撮番組で、大木淳氏は特技監督を務められていたのが、資料をみるとよくわかる。

『帰ってきたウルトラマン』第32話「落日の決闘」では本編監督も兼任し、これ以降、本編監督としての参加もふえ、『ミラーマン』『ファイヤーマン』『ジャンボーグA』『ウルトラマンレオ』では、特撮監督は担当せず、本編のみを監督していることも多い。

円谷プロの、やってみたいことがあれば、機会を作ってどんどんやってみるという社風が、大木淳氏が本編監督の才能を開花させた最大の理由だと思う。このような円谷プロの精神は、いつまでも残していってほしいと思う。
nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

帰ってきたウルトラマン(40) ~円谷スタッフが語る「新マン」秘話4 [帰ってきたウルトラマンこぼれ話2]

プロデューサー、監督、カメラマンらが語る、『帰ってきたウルトラマン』の秘話が続出。いろいろなこぼれ話も、多数あり!

第4回は、特技監督の佐川和夫氏。1939年10月生まれ。日大芸術学部在学中に円谷プロに出入りし、円谷英二氏に師事する。卒業後東宝特殊技術課を経て、円谷プロへ入社。『ウルトラQ』で撮影助手、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』でカメラマンを務めた後、『マイティジャック』で特技監督デビュー。『帰ってきたウルトラマン』の第13話「津波怪獣の恐怖 東京大ピンチ!」で初めてウルトラシリーズの特撮監督を務めた後、様々な円谷作品に関わり、1977年にフリーになる。

カメラマンであった経験からカメラやフィルムに精通しており、様々なノウハウが映像に活かされている。他の演出家なら妥協するような場合でも良しとせず、そのためにテレビシリーズの初期数話でワンクール分の特撮費用を使いきってしまうことがあったという。


★★★★★★★★★★★★
あの頃は若くて、俳優さんにも迷惑をかけたかもしれない。円谷方式というと変ですが、オヤジ(故・円谷英二)という人はアメリカの映画にものすごく敏感だった。だから今スピルバーグなんかもやっているけど、「出るぞ、出るぞ、出るぞ、わっ!」でも出ない。ひと安心してると「ばっ」と出る。そういう演出方法を自然に学んできたところがある。

だからきくちちゃんが中に入っていた時のウルトラマンの僕のコンテも、最初は強いんです。そのあと毎回一度弱くなる。この弱くなり方が難しい。殺陣師がいないわけです。最初の頃はアクションのコンテは、徹夜か二日くらいかかってた。で、きくちちゃんや遠矢と相談するようになって、しまいにはほとんど二人に任せていたときもあった。

当時はぬいぐるみの人にお付きの人なんかいなかった。助監督が付いてるわけだから、助監督にはいつも「カットがかかったら常に声をかけろ」って言ってた。僕らでも火傷のあとはまだこう残っているけど、この人達は、もう。当時の人は何というか根性があった。僕は四つ足怪獣が好きなんですが、それはセットの天井が低かったんで、直立の怪獣だとアングルが限られるからなんです。

きくちちゃんは「低く構えて」など言うと、低く構えてポーズも決めてくれてたんで助かりました。僕が今までやってきた中で、きくちちゃんとの時が、一番ああだこうだという必要が無かった。とにかく形になってた。僕は、初代ウルトラマンは巨大ヒーローという強烈な印象がありました。『帰ってきたウルトラマン』は、ドラマ中心に特撮監督として演出できたことに対し、喜びを感じますね。

でも、きくちちゃんに悪いことしたなぁと思うことがあるんですよ。何か蜘蛛の巣みたいなのを使ったシーンだったと思うけど、シンナーが、口にも目にもマスクを付けて撮ったんだけど、それでも入っちゃうわけです。辛いのが目に見えて解ったんだけど、その演技が惚れた芝居だったんで、ついつい長回ししちゃったことがあった。あれは悪かった。ウルトラマンシリーズの特撮監督として見い出して頂いた円谷プロダクションや帰ってきたウルトラマンのきくち氏には、本当にお礼が言いたいですね。


★★★★★★★★★★★★
新マンで佐川和夫氏が特技監督を務めた話は、13・14・18・19・22・23・28・29・34・35・36・41・42・45・46話である。この中の22話が、話に出てくる蜘蛛の巣のシーンではないだろうか。怪獣ゴキネズラが口から吐くプラスチック液は、空気に触れて「ワタあめ」のようになる設定だ。あの小さなのぞき穴からシンナーの匂いが入ってきたら、頭ガンガンでさぞ苦しいと思う。本当に苦しんでいるから、リアルな映像が撮れるのだが・・・

nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

帰ってきたウルトラマン(42) ~円谷スタッフが語る「新マン」秘話5 [帰ってきたウルトラマンこぼれ話2]

プロデューサー、監督、カメラマンらが語る、『帰ってきたウルトラマン』の秘話が続出。いろいろなこぼれ話も多数あり!

第5回は、本編・特撮の撮影を担当された鈴木 清氏です。1942年生まれ。64年に円谷プロ入社。『ウルトラQ』や『ウルトラマン』に撮影助手兼カメラマンとして参加。その後は日本現代企画を経て、創英舎に所属していた。1973年に宣弘社の『レッドバロン』で監督デビュー。

その後は、プロデューサーとしても活躍。ウルトラマンGや、ウルトラマンティガ、メビウスなどの平成ウルトラマンシリーズの映画プロデューサーとして、その手腕は大いに発揮された。また、ご自身がプロデュースした映画に出演されることもしばしばあった。


★★★★★★★★★★★★
特撮の監督というのは、もちろん好きでなった仕事なんだけども、やっぱりプロデューサーを目指したいという気持ちがありました。本編のカメラマンをやりたいという気持ちもありまして・・・。だからセブンが終わってから、特撮を一時離れていたんです。

その時思ったのは、「人間を撮るのは何と楽なことか」ということでした。画づくりがいりませんからね。特撮の場合、カメラも芝居しなくちゃいけない。平台1枚あって、空バックが1枚あって、その中にどう画づくりしていくかが、戦いなんです。

当時はドロドロになってやったけど、若いからできたんで、今はとってもできません。僕は最初は「帰ってきたウルトラマン」の現場についてないんです。その時は、国際放映で別のをやってました。で、久々にドラマをやるんで帰ってきてくれないかという円谷プロからの要請があったんです。特撮ならカメラは鈴木という考えが、円谷にもあったのでしょう。

最初は佐川さんと本編、特撮を交代でやっていましたが、途中で、ずーっと特撮をやってくれって言われたんで、お断りしますって言いました。その頃はもう、特撮でドロドロになるんじゃなくて、もっと違うものに羽ばたきたいという気持ちがあったんです。

だから7、8話までは特撮と本編を交代でやってたけれども、そのあとはずーっと本編のカメラを回していました。もう一つは、僕らは実相寺監督に画づくりとか憧れてた部分があった。実相寺監督とは、本編でやろうやろうと言いながら、一度もやってないんです。この前も映画の話があったんだけど、うまくいきませんでした。

ああいう画づくりっていうのは、若いうちは凄く憧れるんですよ。「レッドバロン」「マッハバロン」「シルバー仮面」いろいろウルトラマンに代わるものをと思ってやったけど、やっぱりウルトラマンには勝てない。やっぱり永遠のヒーローですよ、ウルトラマンは!

僕らはあの頃、仕事が苦痛じゃなかった。どんなにスケジュール的に辛かろうが、それを辛いとは思わないわけだ。楽しかった! 深夜2時に終わって翌朝6時に始まろうが、それでも楽しかった。


★★★★★★★★★★★★
鈴木 清氏が監督としてご活躍された『レッドバロン』は、ウルトラマンではできないような身のこなしを映像にしてみるという考えが、その原点にあったそうだ。円谷プロが生み出した「ウルトラマン」は、ウエットスーツを着たヒーローとしては元祖だけに勝てない。

日本現代企画に移ってからの鈴木氏は、「ウルトラマン」とは全く違うヒーローものの元祖を生み出そうと、企画から携わったものが「レッドバロン」だった。グラスファイバーで製作されたボディは硬質感にすぐれ、ロボットのイメージそのものだったし、「腕が飛ぶ」「頭部が回転する」などという動作が「ウルトラマン」には無い視覚効果であることも、差別化するという意味で重要ポイントであったという。

以上は、『バロン座談会実行委員会』さんのブログ、「バロン座談会」の記事から一部引用させていただきました。感謝申し上げます。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

帰ってきたウルトラマン(47) ~円谷スタッフが語る「新マン」秘話7 [帰ってきたウルトラマンこぼれ話2]

プロデューサー、監督、カメラマンらが語る、『帰ってきたウルトラマン』の秘話が続出。いろいろなこぼれ話も多数あり!

第7回は、円谷プロの脚本家として金城哲夫氏とともに初期のウルトラシリーズを支えてきた、上原正三氏です。金城氏と同郷の沖縄県出身。氏のシナリオは、金城氏がそうであったように、沖縄が背負ってきたものを色濃く反映しているとも言われています。

『ウルトラQ』の第21話「宇宙指令M774」でテレビライターとしてデビューを果たし、『ウルトラセブン』ではメインライターの金城氏が他番組に力を注ぎだしたため、途中から金城氏に代わって、故・市川森一氏と共に多くの脚本を書き上げました。金城氏が円谷プロを退社したのと同時に、上原氏も退社、フリーの脚本家となりました。

1971年4月に放映開始された『帰ってきたウルトラマン』ではメインライターを務め、第二期ウルトラシリーズの礎を築き、次の『ウルトラマンA』にも引き続き参加、『ウルトラマンタロウ』初期でシリーズを離れます。


★★★★★★★★★★★★
『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』は金城しか成し得ない完成した世界ですし、パターン的にもやり尽してますから、橋本さんとの打ち合わせで少し変化を持たせようということで、ウルトラマン自身が成長するスポ根的なものと、視聴者に身近なウルトラマンの群像を捉えることをコンセプトにしました。

タイトルの「帰ってきた」というのもたいへんシンプルな発想で、初代マンもセブンもみんなM78星雲に帰っちゃっているから、もう一度地球に返そうということと、ウルトラマンのシンプルさを取り戻したらということで、あのタイトルになりました。

主人公の郷秀樹の名前は、ボクがつけました。由来というのはありませんが、郷というのは「地球に密着したふるさと(郷)」、秀樹は「秀でた樹が育つ」というイメージで付けましたね。

当初は初代ウルトラマンが再登場するという設定で、非常にシンプルに行こうということだったんですけど、ひとつのキャラクターに対する思い入れがみなさんすごく強かったし、どうせやるなら新しいものにした方がいいということになったんです。マーチャンダイジングの関係もあったんでしょうね。

変身のアイデアは、話し合いの中から出たものです。精神的な気持ちの高まりというか、なにか小道具を使ってどこででも変身できるということじゃ無くて、そこには変身するだけの高まりとか煮詰まりという、精神のエネルギーみたいなものが必要なんじゃないのかと。

それに耐えるだけの強さみたいなものがあって、初めてウルトラマンが誕生するんだというね。作品の中では、変身後のウルトラマンの姿じゃなくて、そこに至る郷秀樹の心理的な格闘というか、たとえウルトラマンが登場せずともドラマとして通用するというところを目指しました。

それが逆に言えば、『ウルトラマン』や『ウルトラセブン』と比べると徹底していない、つまりウルトラマンになりきってないんじゃないか、という悲観はあると思いますよ。それはそのとおりで、あえてそれを避けたわけですから、作品の進化の過程では仕方のないことと思います。(つづく)

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ

帰ってきたウルトラマン(49) ~円谷スタッフが語る「新マン」秘話8 [帰ってきたウルトラマンこぼれ話2]

プロデューサー、監督、カメラマンらが語る、『帰ってきたウルトラマン』の秘話が続出。いろいろなこぼれ話も多数あり!

第8回も前回に引き続き、上原正三氏です。

(前回からの続き)
視聴率的には、第一期の作品と比較されて辛かったですね。あの頃は円谷が作れば何でも行けるといった状況の中で、『マイティジャック』(1968年)が思わぬ苦戦を強いられまして。円谷神話が崩壊したという状況で、この作品も苦戦するだろうなということは、当初から分っていました。

強化案が出た頃は、何かジダバタしていた様な気がします。それと次のシリーズへつなげるべく、頑張らなきゃという決意やヤル気満々ですよというのをスポンサーに見せるのにね。この1作で終わらせたら、我々の負けということですからね。

思い出のエピソードといえば、「怪獣使いと少年」ですか。これはいい意味でも悪い意味でも、ずうっと引きずって来ましたね。僕自身は、生々しく表現するというのは、基本的には下手だと思うんですよ。それとやっぱり、子供に見せるんだから、オブラートに包んだ方がね。

そんなボクの書いた脚本を、東條(昭平)監督がさらに露骨というか生々しくやっちゃったから、局の方からは、『マズいよこれは。どうしてくれるんだ』みたいなことを言われてね。現在では、よくぞやってくれたと言う人はたくさんいますし、『帰ってきたウルトラマン』はこの作品さえあればいいという極端な人もいますよね。

僕は、観る年代層によって、同じ作品がどんどん自分なりに変化して深くなっていく、ということのほうがベターだと思っているんですよ。それがいきなりもろ肌脱いだ話だから、当時は「やったー」っていう気はしなかったですね。

『帰ってきたウルトラマン』に関わったことは、なによりボクにとって一番思い出強いものですね。第一期のシリーズでは、金城の影という存在で書かせてもらったという感じでした。

昭和44(1969)年に金城哲夫が沖縄に帰るんですが、金城のいない円谷プロには執着がなく、彼が帰るのとほとんど同時に円谷を辞めてしまいます。企画の話を聞いたのはその翌年で、円谷一さんから『もう一度ウルトラで、円谷プロを復活させたいんだ』と連絡をいただいたんです。

この作品では僕自身がれっきとしたメインライターなのだから踏ん張らなきゃという気持ちがあったし、私生活でも結婚直後で生活がかかっていましたから、とにかく無我夢中で一生懸命作りました。それが良かったか悪かったかは別として、ウルトラマンというひとつの歴史をそれなりに刻んだという、ポイントっていうか節目にはなったんじゃないでしょうか。(おわり)


★★★★★★★★★★★★
円谷プロを退いたあとの金城氏と上原氏は、正反対の人生を生きていくこととなった。金城氏は自分の才能を沖縄へ帰っても活かすことができず、不幸な最期をとげてしまい、上原氏は子供番組だけを書く脚本家として、昭和を代表すると言ってもいい脚本家になって行く。

上原氏が子供番組に執着したのは、どうしてだろう。第1期円谷作品の中の金城作品は生き生きとしている。同じ土俵の上で、それ以上のものを書き上げて金城氏を超えてみたいという気持ちが、上原氏をそうさせたのだろうか。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:テレビ
前の5件 | 次の5件 帰ってきたウルトラマンこぼれ話2 ブログトップ