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帰ってきたウルトラマン(42) ~円谷スタッフが語る「新マン」秘話5 [帰ってきたウルトラマンこぼれ話2]

プロデューサー、監督、カメラマンらが語る、『帰ってきたウルトラマン』の秘話が続出。いろいろなこぼれ話も多数あり!

第5回は、本編・特撮の撮影を担当された鈴木 清氏です。1942年生まれ。64年に円谷プロ入社。『ウルトラQ』や『ウルトラマン』に撮影助手兼カメラマンとして参加。その後は日本現代企画を経て、創英舎に所属していた。1973年に宣弘社の『レッドバロン』で監督デビュー。

その後は、プロデューサーとしても活躍。ウルトラマンGや、ウルトラマンティガ、メビウスなどの平成ウルトラマンシリーズの映画プロデューサーとして、その手腕は大いに発揮された。また、ご自身がプロデュースした映画に出演されることもしばしばあった。


★★★★★★★★★★★★
特撮の監督というのは、もちろん好きでなった仕事なんだけども、やっぱりプロデューサーを目指したいという気持ちがありました。本編のカメラマンをやりたいという気持ちもありまして・・・。だからセブンが終わってから、特撮を一時離れていたんです。

その時思ったのは、「人間を撮るのは何と楽なことか」ということでした。画づくりがいりませんからね。特撮の場合、カメラも芝居しなくちゃいけない。平台1枚あって、空バックが1枚あって、その中にどう画づくりしていくかが、戦いなんです。

当時はドロドロになってやったけど、若いからできたんで、今はとってもできません。僕は最初は「帰ってきたウルトラマン」の現場についてないんです。その時は、国際放映で別のをやってました。で、久々にドラマをやるんで帰ってきてくれないかという円谷プロからの要請があったんです。特撮ならカメラは鈴木という考えが、円谷にもあったのでしょう。

最初は佐川さんと本編、特撮を交代でやっていましたが、途中で、ずーっと特撮をやってくれって言われたんで、お断りしますって言いました。その頃はもう、特撮でドロドロになるんじゃなくて、もっと違うものに羽ばたきたいという気持ちがあったんです。

だから7、8話までは特撮と本編を交代でやってたけれども、そのあとはずーっと本編のカメラを回していました。もう一つは、僕らは実相寺監督に画づくりとか憧れてた部分があった。実相寺監督とは、本編でやろうやろうと言いながら、一度もやってないんです。この前も映画の話があったんだけど、うまくいきませんでした。

ああいう画づくりっていうのは、若いうちは凄く憧れるんですよ。「レッドバロン」「マッハバロン」「シルバー仮面」いろいろウルトラマンに代わるものをと思ってやったけど、やっぱりウルトラマンには勝てない。やっぱり永遠のヒーローですよ、ウルトラマンは!

僕らはあの頃、仕事が苦痛じゃなかった。どんなにスケジュール的に辛かろうが、それを辛いとは思わないわけだ。楽しかった! 深夜2時に終わって翌朝6時に始まろうが、それでも楽しかった。


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鈴木 清氏が監督としてご活躍された『レッドバロン』は、ウルトラマンではできないような身のこなしを映像にしてみるという考えが、その原点にあったそうだ。円谷プロが生み出した「ウルトラマン」は、ウエットスーツを着たヒーローとしては元祖だけに勝てない。

日本現代企画に移ってからの鈴木氏は、「ウルトラマン」とは全く違うヒーローものの元祖を生み出そうと、企画から携わったものが「レッドバロン」だった。グラスファイバーで製作されたボディは硬質感にすぐれ、ロボットのイメージそのものだったし、「腕が飛ぶ」「頭部が回転する」などという動作が「ウルトラマン」には無い視覚効果であることも、差別化するという意味で重要ポイントであったという。

以上は、『バロン座談会実行委員会』さんのブログ、「バロン座談会」の記事から一部引用させていただきました。感謝申し上げます。



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