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ご他界された方々を偲んで【第六回】 [偲んで]

【ご他界された特撮関係の方々を偲んで】と題して、仮面ライダー1号、2号、そしてV3にご出演されたレギュラー・準レギュラーの俳優さん、ショッカー・ゲルショッカー・デストロン怪人の声を演じた声優さんなどを中心に、ご紹介させていただきます。

【第六回】 
富士野 幸夫(ふじの  さちお)氏
生没年月日不明

富士野幸夫(ふじの・さちお)氏は劇団ひまわり出身で、大手殺陣集団・大野剣友会に所属していた俳優です。主に1970年代の特撮番組に数多く出演しており、『仮面ライダーV3』では大野剣友会メンバーで初めて、悪の大幹部であるツバサ大僧正役を務めました。

第五回の郷鍈治氏の時にご紹介したように、視聴率にかげりが見えてきた『仮面ライダーV3』はテコ入れのために、キバ男爵とツバサ大僧正という怪奇色性の強いキャラを新たな幹部として迎えることになります。ですが、それぞれ5話ずつの短期間の登場となったのは、タイアップしている月刊幼年誌向けに、月1回の話題を提供するという意図によるものだったそうです。

富士野幸夫氏についての情報が極端に少ないため、今回はその人物像ではなく富士野氏が命を懸けて演じたスーツアクターについて調べてみました。『スーツアクター』とは、着ぐるみを着用して擬斗やスタントなどの演技をする俳優にしてスタントマンのことを指します。古くは東宝映画『ゴジラ』でゴジラの初代スーツアクターを務めた中島春雄が有名ですが、言葉そのものは日本の特撮映画・テレビドラマで使われてきた和製英語であり、ハリウッド映画など海外では用いられていません。

過去の変身ヒーローものの作品では、変身前の主人公を演ずる俳優自身が全てのスーツアクションを行っていた時代もありました。1960年のテレビドラマ『新・七色仮面』では、千葉真一がスーツアクションを自ら行い、器械体操で培ったアクロバティックな千葉の擬斗・スタントは、後に製作されていく変身ヒーローを題材とした作品にも大きな影響を与えていくこととなります。1971年のテレビドラマ『仮面ライダー』では、藤岡弘が初期の回で自らライダーの衣装を着て演じていたことがありました。撮影中に主人公・藤岡が大怪我を負い、それが仮面ライダー2号・一文字隼人誕生へと繋がっていきます。

また東映のスーパー戦隊シリーズでは、『科学戦隊ダイナマン』以降、最終回やその付近では変身前の俳優自らがスーツアクターとしてアクションを行い、その他の回では普段のスーツアクターが素顔でゲスト出演するのが恒例になっています。映像作品において、現在ではスーツアクターを専業とする者もいますが、当初は(売出し中の)通常の俳優が請け負うことが多かったのです。

しかし、俳優の命とされる「顔」が露出しない事が殆どである事から、敬遠されるのが通常でありました。(東宝の俳優だった古谷敏がこのことでとても悩み、バスの中であることに出会わなかったなら、初代ウルトラマンのスーツアクターを途中で降板していたという有名なエピソードがあります)

一方でゴジラやウルトラマンといった製作会社の看板にまで成長した作品においては、その役を演じた事を誇るようになったケースもあり、『仮面ライダーシリーズ』では主役の仮面ライダーを演じた中屋敷鉄也や高岩成二らは他者には真似のできない演技を構築して、独自のプライドを持つ役者たりえることもありました。

大野剣友会について
1964年、殺陣師の大野幸太郎が演劇及び殺陣を志す人材育成のために設立。初期は時代劇の殺陣を担当し、TVドラマ「柔道一直線」にて現代劇のアクションに進出しました。さらに特撮「仮面ライダー」のアクションと吹き替えを担当すると、「仮面ライダー」は子供達の間で爆発的人気となります。剣友会もTVのみならずアトラクションやライダーショーなどで引っ張りだこになり、岡田勝、中屋敷哲也、中村文弥(ライダーV3でヨロイ元帥を演じた)、新堀和男など、ライダーシリーズのみならず、数々のドラマ・映画のアクションシーンを支える名優たちを輩出しました。

大野幸太郎は国民的ヒーローである「仮面ライダー」を演じることに強い責務を感じ、以下のような心構えを若手たちに厳守させたということです。
・ライダーを演じる事を誇りと思え
・夢を壊さぬよう、人の見ているところでは煙草を吸ったり、寝転がったりするなどのだらしない姿を見せてはならない
・衣装も靴もヒーローの一部であり、地面に置いたり粗略に扱ったりしてはならない

大野は1979年に代表の座を岡田に譲ると、会長職に退きます(2009年逝去、享年76)。大野剣友会は現在も岡田を代表として、映画や舞台で活躍中です。

最後に、富士野幸夫氏が命を懸けて演じたツバサ大僧正のプロフィールです。
【ツバサ大僧正】は、キバ一族全滅直後の第36話~第40話に登場しました。チベット高原を発祥地とする邪宗密教「まんじ教」の教祖であり、飛行能力を持つ怪人達によって構成された「ツバサ軍団」を率いる3代目大幹部として日本支部に就任します。

・黒い服を纏った老人で顔に翼を模した赤い仮面を着けており、呪術や自在に伸びる髪、袖の下から出す超音波が武器
・先端に水晶のついた杖を持ち、吸血コウモリを操る能力を持つ
・冷酷無比な反面、戦闘員相手に実験が成功した際には笑いながら奇妙な踊りをする一面も持つ
一族特有の飛行能力を過信したため、特訓を積んだV3の前に敗北を重ねてしまいます。

その正体は【怪人死人(しびと)コウモリ】
「ヒマラヤの悪魔」という細菌で人間を操り、首都地区に住む団地の人間に暴動を起こさせる計画を実行するためにツバサ大僧正が変身した姿。鉤爪(かぎづめ)と腰にある無数の威嚇用吸血蝙蝠が武器。空中で高速回転させてV3を投げ飛ばすが、「V3マッハキック」によって翼を折られ、ツバサ大僧正の姿に戻ると死期を悟って棺の中に入り、デストロンの繁栄を願いつつ自爆した。

プロデューサー平山亨によれば、劇中で語られない以下のようなプロフィールが設定されています。
・200年前のヨーロッパ生まれで、元はキリスト教の牧師だった。極端な反思想を唱えたために地中海の断崖にある大寺院に200年近く幽閉され、その後1万匹のコウモリと共に人間の生き血を啜りながら驚異的に生き延び、身に着けた超能力で脱出しチベットへ向かった。

改めまして、故人様のご冥福をお祈りいたします(合掌)




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ご他界された方々を偲んで【第七回】 [偲んで]

【ご他界された特撮関係の方々を偲んで】と題して、仮面ライダー1号、2号、そしてV3にご出演されたレギュラー・準レギュラーの俳優さん、ショッカー・ゲルショッカー・デストロン怪人の声を演じた声優さんなどを中心に、ご紹介させていただきます。

【第七回】 
中村 文弥(なかむら ぶんや)
2001年1月17日没(享年55)

中村文弥(なかむら・ぶんや)氏は日本の元俳優、スタントマン、スーツアクター。主に特撮テレビドラマで活躍されました。愛称は「ブン」。

1963年(昭和38年)。中村氏は演劇を志し、17歳で東京小劇場に入りました。その後、劇団ふじへ移籍し、同劇団で講師を務めていた殺陣師の大野幸太郎と出会います。翌年には大野率いる『大野剣友会』に立ち上げから参加、中村氏は大野に師事して立ち回りなどを習いました。

『大野剣友会』での中村氏は剣技に関して群を抜く腕前で、高橋一俊と共に殺陣(たて=ドラマなどの格闘シーン)の指導をするまでになります。やがて大野剣友会のもとで、舞台や各種アトラクション、テレビドラマに関わるようになっていきます。

1969年(昭和44年)、23歳の時に中村氏は『柔道一直線』(TBS)で役者デビュー(柔道部部員役)。以降、アクションスタントを中心にテレビドラマ、映画などで活躍をはじめます。

1971年(昭和46年)、25歳の時に『仮面ライダー』(毎日放送)で大野剣友会がアクションを担当、中村氏は戦闘員役で第1話から出演したほか、怪人のスーツアクターも務めました。その後、第14話以降は仮面ライダー2号のメインスーツアクターを務めます。同年、新聞のコラムに『ヒーローの素顔』と題して特集が組まれ、【変身後を演じるスタントマン】として『帰ってきたウルトラマン』の菊池英一、『宇宙猿人ゴリ(スペクトルマン)』の上西弘次、そして『仮面ライダー』の中村文弥氏の素顔が写真入りで紹介されました。

1972年(昭和47年)、26歳の時に『変身忍者 嵐』(毎日放送)で「嵐」のスーツアクターを担当します。『変身忍者 嵐』では、通常の時代劇では袴や着物の裾(すそ)で隠れる下半身がタイツスーツゆえにごまかせず、重心を落とした殺陣の基本形を常に意識させられて苦労したと語っています。同作は時代劇であり、中村氏が得意とする剣戟(チャンバラ=刀で切り合うこと)の本領を発揮した代表作とも言える作品です。

『仮面ライダー』のヒットを受け、変身ヒーローに『仮面の忍者 赤影』などの時代劇の要素を加え制作された作品が『変身忍者 嵐』です。原作者と放送局、メインライター、監督、ナレーターも『仮面ライダー』と一緒で、監督の内田一作は絵巻物風の考証資料まで独自に用意し、関係者へ配ってスタッフ一同「時代劇版仮面ライダー」を作ろうと大変な意気込みだったと言います。

1972年(昭和47年)、日本テレビが『突撃! ヒューマン!!』の岩城淳一郎/ヒューマン役を中村氏に打診。同番組は『仮面ライダー』が裏番組になる予定で、局側としても「打倒・仮面ライダー」の意気込みでのオファーだったのです。しかし、中村文弥氏は「仲間の出ている番組の敵にまわりたくない」として主演デビューの機会を蹴り、これを断っています。

1973年(昭和48年)、27歳の時に『仮面ライダーV3』(毎日放送)でデストロン大幹部の「ヨロイ元帥」を演じます。同役ではマスクは被っているものの、独特の表情や声の作り方により印象的な役柄となっています。

1979年(昭和54年)、中村氏が33歳の時、大野剣友会(以下、剣友会)は大野が代表から会長に退き、岡田勝を代表とする新体制に移行します。しかし、大野の引退を受け、中村氏も芸能界から引退します。同年、剣友会が新体制下で挑んだ『仮面ライダー (スカイライダー)』(毎日放送)では、剣友会の下準備に中村氏は協力をしています。


《人柄》
大野剣友会きっての二枚目で気立ても優しく、中屋敷哲也をはじめ後輩から慕われていました。後輩の一人である河原崎洋央は「負けず嫌いで、意地になる」性格であると証言しています。元来俳優志望であったため、剣友会の担当するドラマに顔出し出演していることも多く、剣友会内では経理や渉外などの事務運営も務めていたそうです。

ヒーロー役を演じる際は、外見だけでなく内面も演じることを心がけていたといいます。中村氏の立ち姿の美しさや絡みの上手さは大野剣友会一と謳われ、剣友会初代代表の大野幸太郎は〖多くの人間が仮面ライダーを演じたが、中村が最高であった〗と評しており、東映生田スタジオ所長の内田有作も「背中の演技」を評価しています。

仮面ライダーを演じていたころはよく怪我をしていたそうですが、「怪我をする演技をやることが役者の恥」という考えから、周囲には怪我をしたことは絶対に言わなかったそうです。後年のインタビューでは、怪我をしても先のことを考えずにがむしゃらにできた若さがあったから、仕事を続けることができたと述べています。

また、剣劇出身であることから刀を折ることを一番の恥と考えており、竹光(たけみつ=竹を削り、刀に見せかけた物)を用いた『変身忍者 嵐』でも動きにくい衣裳にもかかわらず刀を折ることはなかったそうです。


《エピソード》
時代劇中心だった剣友会が、『仮面ライダー』で急にヒーローアクションを請けることになり、「最初は戸惑った」と中村氏は語っています。しかし、仮面を着けた芝居であっても、仮面の中では必ず喜怒哀楽の表情を心がけていた中村氏を、「面を着けての感情を持たせた演技は一番うまかった」と創始者の大野幸太郎ほか誰もが口を揃えて言っています。

2号の衣装は、それまで使っていた1号をリペイントなどして使用したもので、マスクも藤岡弘に合せて作られたものでした。『仮面ライダー』の初期でショッカー戦闘員を演じていた中村氏は、撮影中にスタッフが仮面ライダーのマスクを地べたに置いているのを見て激怒し、「その面をなんだと思ってる!! そいつは主役の顔なんだぞ!」とスタッフを大声で怒鳴りつけたことが殺陣師を務めていた高橋一俊の目にとまり、次のライダーのスーツアクターをするきっかけになった」というエピソードがあります。

『仮面ライダー』役に抜擢された後は、年下であるけれども入会は中村が若干早かったことから、自分に気を使う高橋一俊に対して「いっしゅん(=高橋のこと)、気を使わずどんどん要求してくれよ」と声をかけ、逆に中村氏が殺陣師である高橋のやりやすいように配慮していたといいます。

中村氏はカナヅチで泳げなかったため、2号編のエンディングで戦闘員たちとともに仮面ライダーが海へ飛び降りるシーン(場所はお台場に当時あった貯木場)の時、本番前にライダー役の中村氏も一緒に飛び降りろといわれ、仰天したと語っています。

大野剣友会で養護施設の慰問に訪れた時、歩けないはずの子供が仮面ライダーを見るために立ち上がったことがあったそうです。この時に養護教諭が、「自分たちが365日かけて頑張っても『仮面ライダー』には勝てない」と涙ながらに述べていたと中村氏は語っており、『仮面ライダー』は自身に奇跡を見せてくれたヒーローであると述べています。


《主な特撮出演作品と役柄》
●仮面ライダー(1971年 - 1973年)=ショッカー戦闘員、人食いサラセニアン(第4話)、かまきり男(第5話)、仮面ライダー2号(第14話 - 第52話)ほか多数
●変身忍者 嵐(1972年 - 1973年)=嵐ほか
●イナズマン(1973年 - 1974年)=イナズマン、ファントム帝国囚人(第24話) ほか
●仮面ライダーV3(1973年 - 1974年)=ガマボイラー(第14話)キバ一族のスミロドーン(第34話)、ヨロイ元帥 ほか
●仮面ライダーX(1974年)= GOD戦闘工作員、アポロガイストほか
●イナズマンF(1974年)=イナズマンほか
●仮面ライダーアマゾン(1974年 - 1975年)=十面鬼ゴルゴスの中央の顔、仮面ライダーアマゾン(後半)、獣人[ヘビ獣人、ワニ獣人ほか]
●仮面ライダーストロンガー(1975年)=仮面ライダーストロンガー(1話、2話は中屋敷鉄也と兼任)、最終回のライダーマン、奇械人[ガンガル、オオカミン]、岩石大首領 ほか
●秘密戦隊ゴレンジャー(1975年 - 1977年)=アオレンジャー、ミドレンジャー(前半)、イーグル将校、イーグル科学者(第36話)、川上参謀(第52話) ほか
●宇宙鉄人キョーダイン(1976年 - 1977年)
●ザ・カゲスター(1976年)=カゲスター、セニョール五月(第30話) ほか
●大鉄人17(1977年)=レッドマフラー隊員、長崎助手 ほか


1998年(平成10年)52歳の時、テレビの特番で岡田勝や新堀和男ら剣友会メンバーとともに藤岡弘と再会する姿が、中村文弥氏最後のテレビ出演となりました。藤岡とは10数年ぶりの再会でした。

2001年(平成13年)1月17日、中村文弥氏は悪性リンパ腫のため死去、享年55。晩年はOA機器の部品製造会社を経営していました。

改めまして、故人様のご冥福をお祈りいたします(合掌)


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ご他界された方々を偲んで【第八回】 [偲んで]

【ご他界された特撮関係の方々を偲んで】と題して、仮面ライダー1号、2号、そしてV3にご出演されたレギュラー・準レギュラーの俳優さん、ショッカー・ゲルショッカー・デストロン怪人の声を演じた声優さんなどを中心に、ご紹介させていただきます。

【第八回】 
山口 豪久(やまぐち たけひさ)
1986年4月6日没(享年41)

山口豪久(やまぐち・たけひさ)氏は、日本の俳優。本名は山口智之(やまぐち・ともゆき)、旧芸名は山口暁(やまぐち・あきら)。

高等学校在学中に新東宝のオーディションに合格し、国際放映の特撮テレビドラマ『忍者部隊月光』(1964年・フジテレビ)の名月役でデビューしました。1966年、ピー・プロダクションの特撮テレビ番組『マグマ大使』(フジテレビ)第17話にゲスト出演して、のちに妻となる山口千枝と共演。その後も特撮作品を中心に活躍しましたが、スランプを経験して「劇団NLT」の俳優教室に1年間通い、演技の基礎を磨き直した経歴があります。

1972年には前述の山口千枝と結婚し、後に2女をもうけます。おふたりは1966年の特撮テレビ番組『マグマ大使』第17話・第18話(怪獣ガレオン登場)での共演がきっかけで6年間の交際を経て結婚しましたが、1986年に山口氏は他界してしまいます。

1999年に発行された『仮面ライダー』の書籍にて、千枝さんは山口氏との結婚生活についてインタビューに応じています。「子煩悩で、夜遅く帰っても必ず自宅で食事を摂ったり、忙しい時期でも長女や近所の子供たちと一緒に遊んだりしていた。自分の家庭は大事にしたかったのでしょう」と語っています。また、「子供好きであったからヒーローものの仕事を多くやり、自身が早くに母と死別したことから子供たちに家庭の温かさを伝えたかったのではないか」とも推測しています。

1973年、東映の特撮テレビ番組『仮面ライダーV3』(毎日放送)に結城丈二 / ライダーマン役で出演。翌74年には『電人ザボーガー』(フジテレビ)に大門豊(だいもん・ゆたか)役で出演し、これが初主演作品となりました。1984年、『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』(毎日放送)に再び結城丈二 / ライダーマン役で出演しましたが、この特番が仮面ライダーシリーズへの最後のゲスト出演となり、俳優仕事における遺作となりました。

《エピソード》
特技は空手(初段)、アクション。几帳面な性格で、役毎にドーランの番号やシーンの状況や背景などをノートに取りまとめていたといいます。絵や写真が好きで、ノートの端々には撮影場所の風景が描かれていたり、ロケ地や撮影メンバーとの写真をアルバムにまとめていたりもしていたそうです。子供が好きなので、小学校などを巡回する劇団を旗揚げして活動していた時期もありました。

晩年は俳優業の傍ら、親族が経営する飲食会社の常務としての活動もしており、出店していた高校の食堂では進んで現場に立っては、周囲から「ライダーマンのおじさん」として親しまれていたそうです。娘を連れて自宅近辺の海に釣りに出かけたり、飲食業で多忙を極めるなかでも娘の塾の送迎を行なったりと、家庭を大事にする穏やかな人物であったと妻子は回想しています。

持病があり、「おなかが痛いので病院で注射を打ってくるよ」と出かけて行き、そのまま緊急入院となりました。4日後に容体が急変して急遽子供たちが呼ばれ、子供たちが病院に到着してほどなく息を引き取ったそうです。没後、遺品を整理中に家族それぞれに宛てた遺書が見つかったそうです。

《おもな役柄》
アクション系の俳優ながら、物静かで知的なキャラクターを多く演じる一方で、『電人ザボーガー』の大門豊役のような熱血漢も演じています。東映のテレビドラマ『特別機動捜査隊』(NET)に刑事役でレギュラー出演する一方、他の刑事ドラマではチンピラ役や犯人役といった悪役を多く演じており、『大江戸捜査網』などの時代劇でも悪役を演じることが多かった様です。

【結城丈二(ゆうき・じょうじ)について】
1973年の『仮面ライダーV3』で、主人公のライバルとして「結城丈二(ライダーマン)」を演じました。『仮面ライダー』で主演した藤岡弘も佐々木剛も山口氏の所属していた「劇団NLT」の第1期生であったことから、「『仮面ライダー』にはもともと縁があった」と山口氏は語っています。

プロデューサーの平山亨によれば、山口氏の自宅と平山の自宅が地理的に近かったこともあり、以前から親交があったそうで、『V3』の企画時に山口氏は平山の自宅に押しかけて、「仮面ライダーに出して欲しい」と熱心にアピールをしたといいます。当時すでに山口氏は十分実績のある俳優だったそうですが、この時点で主演は宮内洋に決定していたのでこれは叶えられなかったと、平山は回想しています。このときの印象が強く残っていたので、『V3』で「ライダーマン」の設定が出てきた際に、平山は山口氏にオファーを出したそうです。

このライダーマンは、当初マスクやスーツがアップ用の一着しかなく、山口氏自らスーツを着用してアクション・シーンの撮影を行っていて、砂地をバイクで走るシーンで転倒してスタンドが左足に刺さり、後年まで傷跡が残っていたといいます。

最後の出演となった『10号誕生!仮面ライダー全員集合!!』では既に肝臓を患っていたとされ、「顔がむくんでいた」と元女優の長女が述べています。

山口氏の入院後すぐに、ライダーマン関連のインタビュー記事としては最後の書籍となった『仮面ライダー大全集』(講談社、1986年)が自宅に送られてきたので、夫人が病院に届けたところ、「嬉しそうに見ていた」と夫人は回想しています。

この『仮面ライダー大全集』に掲載されたインタビューでは、「ライダーマン役に当たった時はびっくりした。宮内氏と『正しい心を子供たちに伝えたい』などと話したそうです。一歩引いたヒーローを演ずることを心掛けた。バイクは大型免許を持っていました」と、エピソードを語っています。

『V3』の撮影当時、「僕たちは反目しあうライダーだから、普段から視線を外すよ」と山口氏から言われたというエピソードを、主演の宮内洋が紹介しています。山口氏のプロ意識と役作りへの徹底ぶりがうかがえるエピソードです。また『仮面ライダーストロンガー』で2人が客演(=ゲスト出演)した時には、「山口と仲良く『ロケ弁』を食べた」とも語っています。

長年にわたり『仮面ライダー』シリーズを立花藤兵衛役で支えた小林昭二は、山口亡き後のコメントとして、「彼(山口)も話題作(仮面ライダーシリーズ)に出られて嬉しかったでしょう」と答えています。


1986年4月6日、山口豪久氏は41歳の若さで肝臓癌のため逝去されました。入院からわずか4日後の急逝でした。山口氏が学生食堂の店長として出店していた高等学校に当時在籍していた生徒から、訃報を伝える投書が特撮雑誌『宇宙船』Vol.32(1986年10月号)に掲載されました。

改めまして、故人様のご冥福をお祈りいたします(合掌)



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ご他界された方々を偲んで【第九回】 [偲んで]

【ご他界された特撮関係の方々を偲んで】と題して、仮面ライダー1号、2号、そしてV3にご出演されたレギュラー・準レギュラーの俳優さん、ショッカー・ゲルショッカー・デストロン怪人の声を演じた声優さんなどを中心に、ご紹介させていただきます。

【第九回】 
荒木 しげる(あらき しげる)
2012年4月14日没(享年63)

荒木しげる(あらき・しげる)氏は、日本の俳優、ドラマー。フォークグループ「フォー・セインツ」の元メンバー。旧芸名、荒木 茂(読み同じ)。本名は荒木生徳(あらき・いくのり)鹿児島県出水市出身。

男性ファッション誌などでモデルを務め、大学在学中の1968年にカレッジフォークグループ「フォー・セインツ」のドラムスとしてデビュー。グループは、「小さな日記」「希望」「冬物語」などのヒット曲を生み出しました。

レコード会社の移籍に伴い、フォー・クローバースと改名しましたが、1973年に解散。解散後、荒木氏はCMモデルを経て俳優に転向します。1975年、『仮面ライダーストロンガー』に「城茂(じょう・しげる)」役で主演したことをきっかけに「荒木 茂」に改名し、のちに「荒木しげる」へと改名します。

その後、1976年『超神ビビューン』でふたたびヒーロー役を演じた荒木氏は、『特捜最前線』『暴れん坊将軍』では長期にわたってレギュラーで活躍します。2000年にはシングル「失恋日記 / 雨情話」をリリースし、音楽活動を再開していました。

仮面ライダー生誕40周年(2011年)にはライダー関連のイベントに積極的に参加したり、「スナック・どっと混む」(2010年閉店)のマスターも務めて同店を通じファンとの交流などを積極的に行ったりしていましたが、癌の治療によって食が細り、体力が落ちてきたことで体調を崩すことが多くなっていったそうです。

〈人物・エピソード〉
『特捜最前線』共演時代から同い歳の誠直也とは仲が良く、一緒にゴルフに行く仲だったそうです。2007年4月、東京都目黒区議会議員選に立候補した際には誠が応援演説に駆けつけ、その写真が掲載されると、ネット上では「立候補したストロンガーをアカレンジャーが応援演説している」と話題になりました。(笑)

『仮面ライダーアマゾン』の主演・岡崎徹(1976年引退)とは、同じ所属事務所だった時期があったことや同じ九州出身であることから、個人的にも親交がありました。2010年と2012年には、既に芸能界を引退して久しい岡崎を長崎から東京に招いて、共にイベントに参加しています。
・2010年7月のスーパーフェスティバル「特撮アーカイブ」サイン会
・2012年2月の「昭和のヒーロー 荒木しげるvs岡崎徹 トークショー」)

2010年9月、自身のブログで『荒木しげる後援会 強兜倶楽部(ストロンガークラブ)』を発足させることを発表した荒木氏は、死去するまでの間に数度、ファンとの交流会活動を行っています。

『超神ビビューン』でのセリフで、「お前たち妖怪から、日本を守る!」と言わなければいけないと思われるところを、「お前たち妖怪を日本から守る」(内容が真逆)と言っており、あきらかにNGのはずがそのまま放送されており、映像が残っています。信じられないことですが、筆者も映像を確認しました。(第21話「良い子が筆になる?呪いの習字教室」)

『仮面ライダーストロンガー』関連エピソード
俳優業をやり始めて間もないころ、履歴書を持って子供向け番組の主役オーディション会場へ向かった荒木氏は、そこでカメラテストを受けて渡邊亮徳(わたなべ・よしのり:当時の東映テレビ部部長)の目に止まり、『仮面ライダー』『秘密戦隊ゴレンジャー』『正義のシンボル コンドールマン』の中でどれか好きな物を選ぶように言われました。仮面ライダーしか知らなかった荒木氏は、「仮面ライダーをやりたい」と返答。これにより、仮面ライダーストロンガー / 城茂役が誕生したということです。

空手や柔道(初段)、フットボールの経験がある荒木氏が主演に抜擢され、そのアクションを見て、大野剣友会の代表である岡田勝から「初めてとは思えないぐらい勘がいい」と評されていたそうです。

また、宮内洋と同じくノースタントで危険なシーンも全部自分で演じきり、危険なアクションを行う際は、岡田が宮内や藤岡弘を引き合いに出して煽ったそうです。後日、岡田が煽った内容が嘘であったことを荒木氏は明かされ、岡田は「やれ」と言われたものを荒木氏が断らなかったことに感心したと告げると、荒木氏もそれを聞いて感激したそうです。

『ストロンガー』の終了を持って仮面ライダーシリーズが一旦終了した際は、作品に参加できたことに感謝すると同時に、それぞれ活躍していた先輩仮面ライダー俳優たちの姿を見て、ヒーローを卒業することへの寂しさを感じつつ、これを糧として今後を頑張るという新たな心構えを抱いたということです。

〈闘病・死去〉
娘の大学入学式当日の2012年4月2日に都内の病院に入院し、その12日後にアスペルギルス症併発の肺炎のため、都内の病院で逝去されました。享年63

都内の斎場にて葬儀がしめやかに営まれ、会場ではフォー・セインツの「小さな日記」などが流れる中、仕事先関係者やファンなどが告別式に参列しました。通夜には佐々木剛と高杉俊介、横光克彦、フォー・セインツのメンバーが、告別式には藤岡弘、速水亮、誠直也らが参列したとのことです。

改めまして、故人様のご冥福をお祈りいたします(合掌)




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ご他界された方々を偲んで【第十回】 [偲んで]

【ご他界された特撮関係の方々を偲んで】と題して、仮面ライダー1号、2号、そしてV3にご出演されたレギュラー・準レギュラーの俳優さん、ショッカー・ゲルショッカー・デストロン怪人の声を演じた声優さんなどを中心に、ご紹介させていただきます。

【第十回】 
岡田 京子(おかだ きょうこ)
1986年8月12日没(享年27)

岡田京子(おかだ・きょうこ)氏は、日本の元女優。本名は半田京子(はんだ・きょうこ)。夫は仮面ライダーシリーズでメークアップを担当した小山英夫。

《主な芸能活動》
東京都出身の岡田京子氏は知人の紹介で芸能界入りし、1974年に映画デビュー。1975年、『仮面ライダーストロンガー』に岬ユリ子 / 電波人間タックル役でレギュラー出演しますが、デビュー当時はまだ16歳の高校2年生でした。

「カブト虫」の力強いイメージのストロンガーに対し、電波人間タックルは愛らしいイメージの「てんとう虫」をモチーフにした改造人間で、戦闘になると必殺技"電波投げ"で敵をバッタバッタと投げ倒していきました。スーツアクターが演じるストロンガーに対し、タックルは変身後のアクションも京子氏自らが演じることが多かったのでした。

京子氏はデビューと同時にTBSが展開していた新人女優キャンペーングループ「グリーン・グループ」第6期生にも選抜され、メンバーには浅茅陽子、岡江久美子らがいました。その後芸能界を引退(活動期間は2年)し、1979年に『仮面ライダーストロンガー』のメイク担当であった小山英夫と結婚します。夫婦で居酒屋を営み、一女をもうけましたが、1986年8月12日に持病であった喘息の発作による内臓疾患のため、27歳という若さで早世しました。

《エピソード》
「岡田京子」という芸名は、当時東映社長だった岡田茂が名付けました。中学時代陸上部に所属して短距離選手であった京子氏を、東映や所属事務所は志穂美悦子に匹敵するアクション女優に育てようと期待をかけていたといいます。だが本人は、芸能活動にそれほど熱心ではなかったようです。 芸能界入りした16歳当時から成熟した大人の雰囲気を持ち、デビュー映画『安藤組外伝 人斬り舎弟(1974年11月公開)』では、「化粧をしなくても18歳くらいに見られる。年上に見られて嬉しい」と述べていたとか。

夫の小山英夫は死去の様子について、日常的な発作だと思っていたが容体が急変したと述べています。

《仮面ライダーストロンガー出演のエピソード》
岬ユリ子が変身するてんとう虫(ナナホシテントウ)をモチーフとした改造電波人間タックルは、電波エネルギーを動力として戦うほか、ブラックサタンの奇械人や戦闘員の進撃をいち早く察知する場面の描写が多い。電波人間タックルとして、京子氏自らが変身後のマスクとスーツを着用してアクションの撮影に臨みました。出演するにあたり大野剣友会で3週間稽古をし、同時に二輪免許も取得しました。

しかし、京子氏が殺陣(たて)に不慣れであったため、激しいアクションシーンは大野剣友会の清田真妃が代演することもありました。「殺陣に不慣れでアクションらしくならない」ことをカバーするために、「電波投げで敵を倒す」というアイデアで撮影をすることに。「電波投げ」は戦闘員がタックルに投げられたように自らトンボを切り転倒するというもので、大野剣友会の岡田勝が考案しました。

撮影時は入浴がままならなくなるほど生傷が絶えなかった京子氏は、当時の新聞の紹介記事で「おてんばだったのでアクションに自信がある」と答えているものの、オートバイの練習中に転倒したり殺陣の練習でアザだらけになったりしたことに、「周囲で心配するほど怖くない」と述べていたそうです。

一文字隼人 / 仮面ライダー2号役の俳優・佐々木剛は、京子氏の引退後も親交があり(夫の小山英夫がライダー撮影当時のスタッフで友人)、京子氏の早過ぎる死にショックを隠せなかったといいます。

タックル役での出演はオーディションであったと東映プロデューサーの阿部征司は述べていますが、同プロデューサーの平山亨は名付け親である岡田茂からのゴリ押しであったと証言しています。


家族ができて、これからいろいろな幸せが待っているはずのこの時期にお亡くなりになられたことは、誰よりもご本人が一番悔しい思いに違いありません。改めまして、故人様のご冥福をお祈りいたします(合掌)


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