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人造人間キカイダー(13) うえだ峻氏~この番組に自分の青春を懸けていたことが、そしてその時のことをこうして話せるということが、とてもうれしいですね! [キカイダー対談・2]

(前回からつづき)
聞き手;
「撮影中に怪我とかされませんでしたか?」

うえだ氏;
「僕は特に無かったけど、バイクスタントの室町(健三)さんが1回危険な目に遭っているんですよ。山道を僕の運転するスバルが走ってきてね、後ろからジローの吹き替えを演じる室町さんがサイドマシーンで走ってくるというシーンを撮っていた時のことです。

本番でNGが出て、僕のスバルがテストの時よりもかなり前に止まってしまったんです。そしたら、後ろから走ってきた室町さんがそれに気づかずに衝突して、投げ出されてしまったんですよ。幸い落ちたところが草むらだったので、大事には至らずに済んだんですけどね。

室町さんが吹き替えであることがバレないように、顔を伏せて運転していたのが原因なんです。また伴君も、かなり危険なアクションを進んでやっていましたね。主役と言うのも、大変だなぁといつも思っていました。ダムの上で、命綱も付けずに格闘したりね。僕はそう言うのが無かった分、気は楽でしたけど」

聞き手;
「続編の『キカイダー01』にも、2回ゲストで出られていますが」

うえだ氏;
「ほんとうは続けて出たいという気持ちはありましたよ。伴君も出ていましたし。でも『キカイダー』が終わった後で、名古屋でショーの司会や東映京都での撮影が入って、出られなかったんです。

『01』で百地頑太を演じられた久里みのるさんは、トリオ・スカイラインの人ですよ。やっぱりプレッシャーもあっただろうし、ハンペンとは変えなきゃということで、きっとやりにくかったと思います。でも子供たちは、おなじようなキャラクターだけど何か違うと、感じていたみたいですね。

そういうこともあって、またボクに声がかかったのかな。そこで、ちょうどスケジュールが空いた時に、2回だけ出させていただいたんです」

聞き手;
「うえださんから見た『キカイダー』という作品の魅力は?」

うえだ氏;
「キカイダーは完全無欠じゃ無い所が、よかったんでしょうね。弱さがあったでしょう、全部がスーパーマンじゃなくて。その点で、伴君がやったのはよかったと思います。彼は顔も肢体も華奢なイメージで」  (おわり)


★★★★★★★★★★★★
前回、共演者との思い出では、一緒に出演された方達との思い出を話しておられたが、アフレコの時に一緒になった「ロボットの声の声優さんたち」についても、強く印象に残っていると言っている。『あの独特と言うか奇妙な鳴き声を、至極真面目にやっていらしてね。

その姿をアフレコの時に横で拝見しながら、すごくおかしかった。自分も首を絞められている時のうめき声などは、実際に自分の首を絞めながらアフレコしていましたから、傍から見てたら相当おかしかったと思いますけどね(笑)』

仮面ライダー2号の地方ロケの話で、温泉の女湯をのぞき込んで・・・というエピソードがあったと記憶しているが、こちらもごたぶんに漏れず、地方ロケでスタッフが女湯のぞきをしたとのエピソードが披露されていた(笑)。

スタッフも出演者も若くてエネルギーがあり余っている?時だったこともあるのだろう、このエピソードは伴大介氏の自伝に披露されている。もちろん自慢話などではなく立派な犯罪なので、若いからといってやっていいわけはない。まぁ、おおらかな時代だったということか。

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人造人間キカイダー・キカイダー01の世界を撮影した男!(1) ~撮影・相原義晴氏 [キカイダー対談・2]

1960年に東映テレビプロダクションに入社し、撮影助手のチーフとして第一歩を歩む。大学時代から新東宝の現場に入って撮影の仕事にタッチしていた関係で、入ってすぐチーフとして始められたそうである。5年後に千葉真一主演のテレビ映画作品で、撮影者に昇格している。


★★★★★★★★★★★★
聞き手;
「千葉真一さん主演の格闘物、『くらやみ五段』ですよね」

相原氏;
「そう。で、千葉ちゃんとはね、その前に『アラーの使者』で顔を合わせてて、結構古い付き合いなんです。『アラーの使者』の頃は、監督の近藤さんが武蔵境に住んでいて、撮影日は武蔵境駅から現場まで、車で送ってもらっていたんです。必ず千葉ちゃんもその車に乗ってて。

というのも、当時千葉ちゃんは近藤監督のところによく寝泊まりをするくらい可愛がられていて。それでいつも3人で現場に行ってて、個人的に結構親しく付き合っていたんですよ」

聞き手;
「そうだったんですか。その流れで『人造人間キカイダー』に携わることに?」

相原氏;
「そうですね。どちらかと言えば、僕は子供向け番組は少ないんですよ。ずっと大人向けの番組をやってて、その合間を縫って子供向け番組も撮って。『キカイダー』と『01』も、たまたまボクの所に回ってきたということです」

聞き手;
「特に印象に残るエピソードがありましたら、お聞かせいただけないでしょうか」

相原氏;
「『01』でビジンダーというキャラクターが登場した回です。この時は埼玉県の荒川河川敷でロケーションしたんだけれども、マリ役の志穂美悦子さんが当時JAC(ジャパン・アクション・クラブ)に所属していたでしょう。

それで当日、千葉ちゃんをはじめJACのメンバーが志穂美さんを盛り上げようと河川敷に駆けつけたんですよ。ああした方がいい、こうした方がいいと、千葉ちゃんがまるで親のように世話を焼いていたのをよく覚えていますね」

聞き手;
「キカイダーの頃は地方ロケが多かったと思うんですが、どこか思い出に残っている場所はありますか?」

相原氏;
「何の話だったか、富士山ろくに行ったときのことはよく憶えてます(これは第28、29話)。監督が永野靖忠という、日大の同期でね。もう故人になってしまったんだけど。その永野ちゃんと、朝霧高原のほうだったかな~撮っていて。これが冬でものすごく寒くてね。

朝からの撮影だったんだけど、特に冷え込んだ日で、途中でしるこを作ろうという話になって。話を切り出した永野ちゃんが甘党だったんだよ。それが昼前で、午後には甘酒を作ってね。それを飲みながら撮影をしていた記憶がありますね」

聞き手;
「当時のご苦労が窺い知れるエピソードですね」

相原氏;
「何しろ、毎度同じような流れで撮影しているものだから、記憶が混じったり残らなかったりして、あまり覚えてないんですよ(笑)どこか地方ロケにとなれば、よみうりランド、鴨川シーワールド、南紀とか、決まっていく所もあったからね」 

聞き手;
「『01』以降になりますと、子供番組はどのあたりをやられていたのでしょうか?」

相原氏;
「そのあとは『ロボット110番』(77年)とか『バトルフィーバーJ』(79年)あたりですね。僕は東映で21年間ずっと撮影を務めていたんですが、『バトルフィーバーJ』はその最後の時期に参加した作品で、撮影中にセットから落下して」

聞き手;
「えっ、そうだったんですか!」

相原氏;
「カメラを持たずに、カメラ位置とか様子を見るために上がったんですよ。下には役者からスタッフからみんないる。ロープ1本で上がったんですけどね。バランスを崩して落っこちて。下はコンクリート。それで脊髄と腰椎を、圧迫骨折して(苦笑)」

聞き手;
「それはかなりマズい状態だったんじゃないですか?」

相原氏;
「うん。救急車で運ばれて。入院は半年くらいで済んだけど、リハビリにもう半年かかって、約1年休職したんです。でも、落っこち方が良かったみたいでね。左足の踵(かかと)から着地して、腰、背中と打って、体を丸めていた様なので頭は打たずに済んだ」
(つづく)


★★★★★★★★★★★★
富士山ろくで撮影した思い出の回とは、第28話『赤子を泣かすアカオニオコゼ!』と第29話『カイメングリーンは三度甦る』である。28話は、荒木博士が完成させた完全なる良心回路の設計図が、博士の娘・タエ子の赤ん坊のお守りに隠されていることをダークは知る。

アカオニオコゼにタエ子は襲われ、偶然見つけた女物の赤い靴に設計図を隠して、投げ捨ててしまう。29話では、マサルがその赤い靴を拾って履いていた為、カイメングリーンに狙われる羽目になってしまう。

行く先々に現れるカイメングリーンに、逃げる拍子にマサルの赤い靴は脱げてしまい、カイメングリーンは火炎でその靴を焼いてしまうのだった。かくして、完全な良心回路の設計図は、誰の手にも渡らずに失われてしまう。

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人造人間キカイダー・キカイダー01の世界を撮影した男!(2) ~撮影・相原義晴氏 [キカイダー対談・2]

(前回から続き)
聞き手;
「その後、現場復帰されて?」

相原氏;
「うん、これは拾った命だと。これを機会に、こういった仕事からは足を洗って別のことをやろうかなと考えたんです。土曜ワイド劇場なんかでご一緒していた斎藤武市監督が病院にお見舞いに来てくれて、『俺と一緒にやらないか』という話になったんです。

それじゃあということで東映を辞めまして・・・フリーになって、国際放映、日活、近代映画協会とかの2時間ドラマを撮るようになりましてね。だからそれ以降は、子供番組には全く参加してないんですよ」

聞き手;
「2時間枠のサスペンスが流行した80年代にあたりますか?」

相原氏;
「ちょうどその時期です。でも、そうこうしているうちに40年。形式的なところで表彰も受けました。その後、撮影所時代の友人が東映ビデオという会社にいまして、カラオケの背景映像を撮ってくれないかと頼まれて、2時間物をやりながら、そっちもやるようになったんです」

聞き手;
「では、その後はその2本柱で?」

相原氏;
「いいえ。2時間ドラマはね、あまりにも話の内容に殺人事件が多すぎる。人殺しばかりのドラマに嫌気がさしてしまって、ドラマの方は辞めたんです。本当に嫌だと思ったのは、『金属バット殺人事件』(85年)というドラマを撮った時でしたね」

聞き手;
「現実の事件をドラマ化した作品ですよね」

相原氏;
「そう。あれは本当に生々しくてね。で、辞めようと。カラオケの方も、スタッフにいろいろ気を遣うのに疲れてしまって。ひとりでやるようになってからカラオケブームが下火になったので撮らなくなって。で、自分の撮りたいものを撮って行こうと考えたんです。

もともと文芸作品が撮りたかったので。アイヌまりも祭りとか日本全国の祭り、行事なんかをテーマに撮りに行って、映像を編集してパッケージにして」

聞き手;
「凄いですね。話は変わりますが、ご自分で会心作と思う作品がありましたら、お教えください」

相原氏;
「ウーン、特に自分で会心の作と思うのは無いけど、会社(東映)から賛辞をいただいたことはありましたね。『忍者キャプター』(76年)という作品で。1枚絵(写真)を使ってアニメーション的なことをやってみたんですね。始めての試みだったし、実写でやるのは結構難しい作業で。

キャラクターを黒バックで撮影して、24コマなら24枚少しずつ拡大した写真を用意して、切り抜いて、別の背景写真に貼ってコマ撮りしていくんです。そうすると、例えばコーヒーカップから忍者がだんだん大きくなって出てきたように見えるというもので」 

聞き手;
「作品の特徴的な手法になっていました。あれは相原さんのアイデアだったんですね」

相原氏;
「ええ。あの時もよく監督さんと意見をぶつけ合いましたよ。僕も我儘だから退かないしね(笑) 奥中監督とは始終やりあってたね」

聞き手;
「では、最後に相原さんが手掛けられた作品のファンの方々、キャメラマンを目指している若い世代へ向けたメッセージをお願いします」

相原氏;
「今は、どちらかと言えば流されやすい時代だけれど、そうでない自分の視点をしっかり持って、見据えて、それに向かって進んでいく。“自分はこうだ”という生き方をしてほしいと思います」   (終わり)


★★★★★★★★★★★★
大変大きな怪我をされて、またフリーになってからもご苦労が多かったと思うけど、一本芯の通った生き方をしてきた方だと思いました。仕事上では、自分がこうだと思ったら相手とぶつかることを恐れずに言うことも、時には必要なんです。そうすることで、より良いもの(あるいは、結果)になることが多いので。

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