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仮面ライダー1号秘話(11) ~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その2]

《脳天に突きぬける衝撃》
カツーン、カツーン、カツーン。白衣を着た先生が振り下ろす金槌の音とともに、私の背骨から脳天にかけて、言いようのない衝撃が走る。私の苦しみをあざ笑うかのように、鉄と鉄とが激しくぶつかる無機質な音が診察室に響く。

私の腰の裏側、臀部(でんぶ;おしりのこと)からわずかに出っ張っている鉄棒の先にジャッキのようなものを入れて、先生はそれを金槌で打ちながら少しずつ鉄棒を抜き出していく。麻酔をかけずに、左太股の骨の中に埋め込まれていた鉄棒を引き抜く手術は、思った以上の激痛を伴う苦行だった。

その時私は、「仮面ライダー」の撮影現場を抜け出し、半年前に入院したM外科に来ていた。振り返れば運命の手術の日、「大丈夫、絶対に治してやるから」先生のその言葉を信じて、その言葉にすがってひたすら激痛に耐えて、私は何とか役者としての再スタートを切れるようになった。

すでに退院から3か月。必死のリハビリの甲斐あって、何とか撮影現場に戻ってはいたが、まだ左足の骨の芯には鉄棒が入ったままだった。そのような身体で、私は「仮面ライダー」の撮影に復帰していた。もしもう一度事故を起こしたら、今度は鉄棒が曲がって引き抜けなくなる。

そうならないよう十分注意しながら、ある程度回復したら鉄棒を引き抜いて、本格的なリハビリを開始することになっていた。こうして左太股の鉄棒を抜く手術は進められた。

先生の治療のおかげで私の左足は助かり、多くの方の応援によって、「仮面ライダー」の撮影にも戻ることができた。どんなに感謝しても、し足りない。けれど復帰の先に、こんな痛みと苦しみがあるとは知らなかった。

「仮面ライダー」への復帰は確かに嬉しかった。けれどそれは、再び訪れる激動の日々の到来でもあった。今思えば、鉄棒を抜く手術の痛みはその予告だったことになる。



《地獄を見た復帰の桜島ロケ》
「藤岡君、準備はいいか?行くぞ、ヨーイ、本番スタート!」大型バイクにまたがった私を確認して、監督がメガホンで叫ぶ。71年10月。約三か月の入院とその後の三か月のリハビリ中に、夢にまで見た現場復帰の時がやって来た。

所は鹿児島県・桜島。ひと気の無い火山岩の荒れ地をバイクで走るシーンが、最初の撮影だった。なぜあの時の監督は、病み上がりの私に、あのシーンを用意したのだろう。私の気持ちを察してくれなかったのか、それともあえてバイクシーンにしたのか。

獅子は子を谷底へ突き落して、這い上がってきたモノだけを育てるという。私の現場復帰にも、甘やかさず最初に厳しい場を設定するという思惑があったのだろうか。それとも、必然的にそういう場面になってしまったのか。

真意はわからないが、久しぶりに戻った現場で最初にやらされたのは、あの半年前の悪夢を引きずるようなバイクでの走行シーンだった。目の前には、噴煙たなびく桜島の雄姿がある。バイクにまたがった私の眼前に広がっていたのは、大小無数の石が転がり、どこをどう走っていいのか皆目見当もつかない荒涼とした大地だった。

監督は私に、そこをバイクで全力疾走しろと言う。はたしてどのルートを選べばバイクを倒さずに走りきれるのか、本番スタートの合図がかかるまでに頭の中でイメージしなければならない。けれど頭の中は真っ白だった。

思い出されることといえば、半年前の事故シーン。この悪夢をどうやって振り払っていいのかわからない。しかも私の左足には、まだ一本の鉄棒が入ったままなのだ。もし途中で転んだら、鉄棒が曲がって引き抜くことができなくなってしまう。そうなれば・・・車椅子の生活だ。

それは医師に何度も言われていた注意事項だった。それでも現場に出たかった。なんとしても本郷猛として役者に復帰したかった。その一心で現場に戻って来た。私はスタートの合図を聞くと、目をつぶってスロットルを全開にしていった。


★★★★★★★★★★★★
一度大怪我をすると臆病になってしまうことは、ある程度は仕方のないことだと思う。いわゆるトラウマである。それを乗り越えて行けるかどうかが、その後の人生のカギにもなると思うが、言うは易し成すは難しである。

藤岡氏の場合は「完全復帰」ではなかっただけに、このシーンでの不安を拭うのは容易ならざるものがあったと思う。だがこの試練をはじめとして、こののちやってくる「激動の日々」をくぐり抜けてきた結果が、今も現役で活躍されている藤岡氏を創り上げたことは間違いのない事実である。

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仮面ライダー1号秘話(12) ~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その2]

《自分より大切な “何か” 》
あの頃、私はアパートに一人暮らしだった。早朝から撮影所に行って撮影の合間に昼と夜、弁当を二回食べ、深夜部屋に戻って夜食を食べて風呂に入ってバタン、キューという毎日が続いていた。

当時の最高のごちそうは、麺の上にお湯を注いだインスタントラーメンに生卵をかけた卵ラーメン、そして朝の牛乳だった。そんな食事でよく栄養のバランスがとれたなと自分でも不思議だけれど、とにかく卵と牛乳を採るとヤル気とファイトが湧いてきた。

毎日の撮影をこなすのに無我夢中で、おいしいものが食べたいとか、どこかに食事に行きたいとかいう気持ちは湧いてこなかった。その頃の私にとって、はじめてもらったテレビの主役、仮面ライダーの仕事は、ある意味で、自分自身よりも大切なものだったのだ。

自分の全存在をかけて取り組まなければならないもの。自分自身を捨てられるもの。今ここで燃え切らなければならないもの。いろいろと言い方はあると思うけれど、周囲の期待やスタッフの熱意を考えると、自分が大切とか怪我が怖いとか、何が欲しいあれが食べたいなどと言っている暇は無かった。

撮影が終わって家で風呂に入ると、湯に浸かった瞬間に跳び上がるほどの痛みを感じる。それまで緊張していて気が付かなかったけど、ハードな撮影で身体のあちこちに傷や打ち身ができている。傷口に湯がしみる。

そういったことに初めて気づくのが、お風呂の中。それでも湿布薬や赤チンを塗る程度で布団にもぐり込み、翌日の為に一分でも長く睡眠をとる。そういう毎日だった。

振り返ってみると、燃えることのできることに出合ったことは幸せだったと思う。それまでの養成所時代の自分は、ヤル気と根拠のない自信はあっても、自分を賭ける対象が無かった。自分より大切な何かが見つかれば、身体の傷や多少の“ひもじさ”なんて大したことは無い。

無我夢中になれるものが見つかれば、文字通り「我を無にして、夢の中」に浸れる。少なくとも何か物を創ろうという人間にとって、こんなに幸せなことはない。恋愛だってそうだろう。自分が一番大切だと思っているうちは、本当の恋愛なんてできない。

あの人のためなら死んでもいい、自分よりあの人のことが大切だと思えた瞬間に、相手も無我の心境になって愛をささげてくれる。それが真の愛だ。命を賭けて命よりも大切なもの。それが愛であり、愛こそすべてのエネルギーの根源だと思っている。

恋愛でも仕事でも、自分より大切な何かを見つけること。別な言葉で言えば、それは「大儀」だ。そしてそれと出合った時に無我夢中で頑張ること。燃え尽きること。それが、生き甲斐につながるのだと思う。


★★★★★★★★★★★★
今回の内容は、人生教訓とでもいえる内容のものだ。長く生きている先輩として、若い僕達に教えてくださったことと思い、よく肝に銘じておきたい。

ところで、前半の内容と同じことを、他の人も言っていたなと思って、思い出した。モロボシ・ダンを演じた森次晃嗣氏である。朝一番電車でロケ現場に出かけ、最終で帰る毎日だったと。大熱が出てもスタッフに迷惑はかけられないから、這ってでも行ったと。そんな毎日を1年間やり遂げた、無我夢中で演ったと言っておられた。ダンの役は、“自分よりも大切なもの”だったに違いない。

言い方は少し違うけど、古谷敏氏もウルトラマンをいつ辞めようかって考えながら、毎日やっていたという。でもある日、小学生の集団がバスに乗って来て、ウルトラマンの話を皆で楽しそうにしている姿を見て、考えさせられたそうだ。これではいけない・・・と。

三人とも、あの時しっかり取り組んでおいたから、半世紀たって高齢になった今でも、ファンからの声援をもらえるのだと、同じ言葉が3人の口から出てくる。

おかげで、永遠のヒーローはいつまでも輝いている。仮面ライダー、ウルトラマン、ウルトラセブン

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仮面ライダー1号秘話(13) ~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その2]

《ライダー2号登場秘話》
私が怪我から復帰したのは、放送開始から役8か月後の第40話「死闘!怪人スノーマン対二人のライダー」だった。そして完全復帰したのは、さらに三か月たった第53話「怪人ジャガーマン決死のオートバイ戦」からだった。

それまでの間、1号ライダーはショッカーの別行動隊を追って海外に旅立ったという設定だった。緑川博士の娘ルリ子も本郷猛のあとを追って、ヨーロッパに旅立ったということになる。子供の夢を壊さないという、故・平山プロデューサー苦心のアイデアだった。

その間ブラウン管を守ってくれたのは、言うまでもなく、2号ライダーの佐々木剛君だ。彼とは劇団NLTというところの養成所時代の同期だった。

すでに当時、彼は『柔道一直線』の風祭右京(かざまつり うきょう)役で少年少女のハートをつかんだスターだった。彼とはこの時以来、約30年にわたる付き合いになる。

私の負傷の直後に出演依頼の話をするために出かけていくと、佐々木君は一度はそれを断ったという話を、後年、故・平山さんから聞いた。驚いたスタッフが訳を聞くと、「藤岡君が怪我したのをいいことに、自分が主役を奪う様で嫌だ」という理由だったという。

本来なら、私が頭を下げてお願いしなければならないところだったのに、なんと筋の通った男だろう。驚いた平山さんが「藤岡を助けると思って」と再度懇願すると、やっと了解してくれたという。彼の登場からあの「変身ポーズ」ができたのは、承知の通り。

佐々木君はバイクの免許を持って無かったから、ベルトの風圧による変身という設定が難しかった。それに後々の展開を考えると、バイクに乗らなくても自分の意志で変身できるようになったことは、撮影や脚本の自由度を考える上で有効だったと思う。その点でも、私の怪我の功名だった。

佐々木君の活躍やスタッフの頑張りで、2号ライダーの登場以来視聴率はグングン上がって行った。当初は『頭の体操(*)』の放送が無かった関西で好調だったが、関東にも飛び火して視聴率は20パーセントに届くようになった。こうなると子供番組は強い。

番組宣伝など打たなくとも、口コミで視聴者が増えていく。私が完全復帰した第53話は、ついに32パーセントという、当時では最高の視聴率を記録することができた。これもすべてスタッフの努力と、故・平山プロデューサーたち制作陣の意志と計算にあったと思う。
 (*)関東地区ではTBS系で放送されていた、大橋巨泉氏が司会を務めるバラエティ番組

細かなことを言えば、私が休んでいた11か月間で『仮面ライダー』のストーリーは、どんどん明るいポピュラーなものになっていった。

当初は、「本郷猛は改造人間だ」という暗く重いタッチの物語だったが、ある程度視聴率を引っ張ったら、そこから先は明るい大衆路線にシフトしていくという往年の東映映画の王道を狙ったのだという。そういう制作陣の細かな狙いも見事であった。


★★★★★★★★★★★★
ここに書かれているように、藤岡氏の怪我のおかげ(失礼!)で、2号ライダーの出現とともに番組カラーが変わり、さらに「本郷ライダーはヨーロッパのショッカーと戦っている」という設定が、ショッカー組織の大きさを表現することにもなったわけである。「この設定」を考えた故・平山プロデューサーの、子供の夢を壊さぬ配慮、主役を大事にする気持ち、そしてなによりも番組を心から愛していたことが、よくわかる部分だと思う。

故、平山プロデューサーの「この設定」が、ダブルライダーを生み、V3以降のライダーたちを生むことになった。さらに平成になってもそれは生き続け、もう10人以上の平成ライダーたちを生んでいるのである。この偉大な事業の種を、番組が始まったばかりで、作る方も演じる方も手探りでやっていた時期に蒔いた平山さんの功績は、語り尽せぬほどに大きい。

ライダーの主役を務めたこの二人が劇団NLTで同期だったという話は、『レインボーマン』の長沢大氏(3)のところで少し触れている。この劇団出身者は、のちに特撮ヒーローの主役を演じている人が多いという。長沢氏が入団当初から目をかけていた後輩・水谷邦久氏が主役を務める『レインボーマン』に、悪のドクター役で出演することが決まった経緯などが読めます。

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