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仮面ライダー1号秘話(13) ~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その2]

《ライダー2号登場秘話》
私が怪我から復帰したのは、放送開始から役8か月後の第40話「死闘!怪人スノーマン対二人のライダー」だった。そして完全復帰したのは、さらに三か月たった第53話「怪人ジャガーマン決死のオートバイ戦」からだった。

それまでの間、1号ライダーはショッカーの別行動隊を追って海外に旅立ったという設定だった。緑川博士の娘ルリ子も本郷猛のあとを追って、ヨーロッパに旅立ったということになる。子供の夢を壊さないという、故・平山プロデューサー苦心のアイデアだった。

その間ブラウン管を守ってくれたのは、言うまでもなく、2号ライダーの佐々木剛君だ。彼とは劇団NLTというところの養成所時代の同期だった。

すでに当時、彼は『柔道一直線』の風祭右京(かざまつり うきょう)役で少年少女のハートをつかんだスターだった。彼とはこの時以来、約30年にわたる付き合いになる。

私の負傷の直後に出演依頼の話をするために出かけていくと、佐々木君は一度はそれを断ったという話を、後年、故・平山さんから聞いた。驚いたスタッフが訳を聞くと、「藤岡君が怪我したのをいいことに、自分が主役を奪う様で嫌だ」という理由だったという。

本来なら、私が頭を下げてお願いしなければならないところだったのに、なんと筋の通った男だろう。驚いた平山さんが「藤岡を助けると思って」と再度懇願すると、やっと了解してくれたという。彼の登場からあの「変身ポーズ」ができたのは、承知の通り。

佐々木君はバイクの免許を持って無かったから、ベルトの風圧による変身という設定が難しかった。それに後々の展開を考えると、バイクに乗らなくても自分の意志で変身できるようになったことは、撮影や脚本の自由度を考える上で有効だったと思う。その点でも、私の怪我の功名だった。

佐々木君の活躍やスタッフの頑張りで、2号ライダーの登場以来視聴率はグングン上がって行った。当初は『頭の体操(*)』の放送が無かった関西で好調だったが、関東にも飛び火して視聴率は20パーセントに届くようになった。こうなると子供番組は強い。

番組宣伝など打たなくとも、口コミで視聴者が増えていく。私が完全復帰した第53話は、ついに32パーセントという、当時では最高の視聴率を記録することができた。これもすべてスタッフの努力と、故・平山プロデューサーたち制作陣の意志と計算にあったと思う。
 (*)関東地区ではTBS系で放送されていた、大橋巨泉氏が司会を務めるバラエティ番組

細かなことを言えば、私が休んでいた11か月間で『仮面ライダー』のストーリーは、どんどん明るいポピュラーなものになっていった。

当初は、「本郷猛は改造人間だ」という暗く重いタッチの物語だったが、ある程度視聴率を引っ張ったら、そこから先は明るい大衆路線にシフトしていくという往年の東映映画の王道を狙ったのだという。そういう制作陣の細かな狙いも見事であった。


★★★★★★★★★★★★
ここに書かれているように、藤岡氏の怪我のおかげ(失礼!)で、2号ライダーの出現とともに番組カラーが変わり、さらに「本郷ライダーはヨーロッパのショッカーと戦っている」という設定が、ショッカー組織の大きさを表現することにもなったわけである。「この設定」を考えた故・平山プロデューサーの、子供の夢を壊さぬ配慮、主役を大事にする気持ち、そしてなによりも番組を心から愛していたことが、よくわかる部分だと思う。

故、平山プロデューサーの「この設定」が、ダブルライダーを生み、V3以降のライダーたちを生むことになった。さらに平成になってもそれは生き続け、もう10人以上の平成ライダーたちを生んでいるのである。この偉大な事業の種を、番組が始まったばかりで、作る方も演じる方も手探りでやっていた時期に蒔いた平山さんの功績は、語り尽せぬほどに大きい。

ライダーの主役を務めたこの二人が劇団NLTで同期だったという話は、『レインボーマン』の長沢大氏(3)のところで少し触れている。この劇団出身者は、のちに特撮ヒーローの主役を演じている人が多いという。長沢氏が入団当初から目をかけていた後輩・水谷邦久氏が主役を務める『レインボーマン』に、悪のドクター役で出演することが決まった経緯などが読めます。



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