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実相寺監督が語るウルトラ3 ブログトップ
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実相寺監督と赤坂界わい2 [実相寺監督が語るウルトラ3]

TBS局舎内では、数多くのロケをしている。先刻述べた科特隊本部の廊下、工作室を始め、拾い上げて行けばかなりの数になるだろう。廊下なんかは、ものすごくお世話になっている。「ああ、こんな所で昔はロケをしていたんだ」と確かめてもらえない場所なのが、残念でもある。

テレビ局内に立ち入るのに、最近はIDカードが必要でかなり難しいからだ。 私が入社した30数年前は、出前のあんちゃんでも、自由に製作局の部屋に出入りしていたのである。昭和40年代に入ってから、一切の出前も、部屋では取れなくなってしまった。局舎管理が厳しくなってしまったからだ。

手渡しが基本だったヤクルトおばさん(今はお姉さんだが)も事務所に入れなくなるほど、どの会社もガードが固くなった時代だから、仕方がない。最近はテロ事件の多発で、ますます厳しさは増しているに違いない。

じゃあ、出前はどうしたのかといえば、テレビ局舎通用口の傍らに「外注食堂」という場所を作り、そこで食べさせるようにしたのであった。出前のあんちゃんたちは、そこで岡持ちからラーメンやかつ丼を出して、局の人間に渡していたのである。

到着すると、出前のあんちゃんから内線電話がかかってくるのだ。だが、このスペースは殺風景だったため、そこへ出向いて食事をする者は徐々に少なくなった。こういったテレビ局の過ぎ去りし思い出は、書くとキリがないのでやめておくが、思い出の詰まったTBS局舎も夢の彼方へ去っている。

TBSでは、「恐怖の宇宙線」で怪獣ガバドンが眠りこけ、ビルの窓に姿が映る合成カットを手始めに、各所で撮影をしている。眠るガバドンが映った窓はTBS会館後部の窓だから、これも確かめることは叶わなくなった。何といっても多かったのは、「地上破壊工作」の回である。

地底怪獣テレスドンが赤坂弁慶橋付近に出現するという設定だったから、当たり前といえば当たり前である。あのミニチュアセットは、ちょうどホテルニューオータニ側から赤坂見附方向を見た感じで打ち合わせをしたものだ。

建築中のビルとか地形の細部はかなり違ったものになっているが、気分は赤坂見附である。テレスドンが出現後、ビルの谷間を行く合成カットがある。あれはTBSの本館と会館の間のせまい隙間で、一ツ木通り側から撮影をしたものだ。

「ああ、あそこをテレスドンが闊歩したんだなぁ・・・」と、一ツ木通りでひとりニヤついていたら、通りがかりの人に変な目で見られてしまった。でも、これももう確かめることはできないのだ。

当時のTBSの局舎は、建て増しに継ぐ建て増しで、台地に長く寝そべる状態だった。元々は、近衛歩兵三連隊が駐屯した場所である。昔は赤坂新町と言われていたらしい。戦後二十三区制になり、大部分は新町ではなく一ツ木町になっている。

『ウルトラマン』と同時期の東京都区分地図を見ると、もう港区赤坂5丁目になっており、そこに素っ気なく、「TBS-TV放送所」と記されている。

ともあれ、TBS放送センターという巨大なビルが天を摩しているが、この現在がいつまで続くのかも、予測できまい。この巨大にみえる新局舎の永遠性も、無常の象徴でしかなかったことを悟る時代が訪れるだろう。 (つづく)


★★★★★★★★★★★★
実相寺監督がTBS社員になった頃、赤坂界わいはまだ辺境の地だったそうだ。TBSラジオの前身のラジオ東京(KRT)が有楽町という賑やかな町にあったのに比べ、そのテレビ局は辺境の地に追いやられていた。
テレビ会社に就職した実相寺監督は、早速我が家にテレビ受像機を購入したそうだが、日立製14インチのテレビが当時の初任給の5倍程の値段であった。テレビ局の給料はそれなりに高いと思うが、それでもかなりの高額商品だったようだ。
この話を読んでいたら、ソニーが初めて家庭用ビデオデッキを発売した時に、父に無理を言って、ボーナスで買ってもらったことを思い出した。親の心子知らずであった・・・。ありがとう、天国のオヤジさん。

追伸) テレスドンが暴れ回る「地上破壊工作」は佐々木守氏が脚本を書いたことになっているが、実のところは佐々木氏が多忙で、ほとんどの部分を実相寺監督が書いたと告白している。

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実相寺監督と赤坂界わい3 [実相寺監督が語るウルトラ3]

うひとつ赤坂近辺で多くロケをしたのは、「怪獣墓場」である。シーボーズという骨格だけの怪獣が、宇宙恋しさに上ったビルは、“超高層のあけぼの”霞が関ビルだが、その後ロケットにくくりつけ怪獣打ち上げ後、失敗し墜落のシーンもTBSで撮影した。

怪獣の重さにため息をついて、茫然とロケットの残骸を隊員達が眺めるシーンを、ちょうど工事中だったHスタ、Kスタの工事現場を利用して撮ったのだ。ところが、そのとき工事中だったスタジオは早くも取り壊されて、現在は無い。なべてウルトラの生命力には敵わないという証だろうか。

そのシーボーズが宇宙へ戻りたいと超高層の霞が関ビルをよじ登るおり、イデ隊員はじめ、行方を追ってきた連中が怪獣を見つける切り返しは、現在ものすごい交通量の高速3号線谷町インターの下の、歩道橋で撮影をした。この谷町という町名も、インターにその名を残すのみである。

首都高速の谷町あたりも工事中だったが、その真下の、隊員達がやってくる歩道橋も、まだ工事中だった。現在、ビルの林立するアークヒルズの傍らである。いまにして思えば、東京が徹底的に変貌していく中で、撮影をしていたのである。

もっともアークヒルズの工事が開始されたのは、その撮影からずーっと後だ。昭和50年代初頭に、コマーシャルで元の霊南坂教会を含め、そのあたりを撮影しているから、まだ『ウルトラマン』の頃には、かろうじて古い町並みが残っていた。

撮影をした歩道橋はもう付け替えられて、形が変わっている。地下鉄南北線が開通し、再開発の波はとどまることなく飯倉方向へとおよび、地下鉄の駅ができた六本木1丁目あたりから麻布台へは、天地創造のごとく、ディベロッパー(開発者という意味)という神の手が入ってしまった。

谷町から市兵衛町、麻布我善坊町から飯倉へ、つまり道玄坂を上って台地の細い道をすり抜け、また下って三年坂を上って飯倉交差点へ、という散歩道が好きだったが、もう別の風情を無理やり見いだすしかない。山形ホテルはとうに消え失せているし、スペイン大使館も建て替えられようとしている。

宇宙へ戻りたいシーボーズがよじ登った霞が関ビルですら、もう歩道橋のあったあたりからは、手前の高層ビルにさえぎられて眺めることはできないのである。

その界わいは、個人的にも縁のある所である。TBSを退職して後、フリーのスタッフ仲間と事務所を開き、今もって赤坂から離れられないでいる。

ウルトラマン時代は、まだ都内各所を都電が走っていた。別のテレビ作品で、同じ年の初夏に銀座通りで、都電のロケをしたことも懐かしい。『ウルトラマン』のミニチュアなどでは、あまり都電が出てくることが無いのは何故だったんだろうと、ふと思う。 
(つづく)


★★★★★★★★★★★★
退治してきた怪獣達の御霊を弔うという「怪獣供養」は意表をついた発想であり、凄いと思う。その上、ウルトラマンに宇宙へ放り出された怪獣達の安住の地として「怪獣墓場」が存在しているというのも、凄い発想である。この故・佐々木守さんの自由なる発想の原動力は、いったい何だったのだろう。

確かに最初に思いついたもん勝ち的なところはあるが、昭和に生きた人が思いつかなかったから、平成に生きる人が思いつくという根拠は、何もない。要は、発想力の豊かさが勝負のカギだ。

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実相寺監督と赤坂界わい4 [実相寺監督が語るウルトラ3]

坂辺りの風景が好きでテレビ局に就職したわけでは、むろん無い。ただ電車ファンとして、都電のある風景では、東京中で赤坂界わいが一番好きだった。

現在の赤坂離宮の横手、ホテルニューオータニを取り巻くお濠の淵を、赤坂見附に向かって四ッ谷(よつや)方面から専用軌道を通って、都電が疾駆してくる様が好きだった。北区滝野川を走っていた電車は他の都電とは様子が違っていたので、利用者たちは習慣で、「王子電車」と呼んでいた。

元来は私鉄だった王子電車が都電に吸収されたもので、車両も王子電車からの引き継ぎが多かったからである。どことなく無骨で、かつての北豊島郡あたりから、荒川へかけて走るのにふさわしいスタイルだった。

国鉄からJRに受け継がれても、つい「国電(こくでん)」と行ってしまう習性のようなものである。私など、つい「省線(しょうせん)」と口にして笑われることが今でもある。ただし、「E電」というよりマシだろう。もっとも、E電とは誰も口にしないが。

円谷プロが出しているファンクラブの会報に目を通していたら、円谷一さんのウルトラQ第28話「あけてくれ!」のロケに使われた都電のことが出ていた。その会報にある“ロケ地を訪ねて”という連載の番外編で、撮影に使用した実際の車両の現状を突き止め、素敵な記事が書かれていた。

それを読んで、私はとてもうれしくなってしまった記憶があるが、もう其の記事の時点からは大分時間も流れている。

ついつい脱線してしまったが、『ウルトラマン』あたりまでの赤坂は、まだのんびりしたものだった。第一、TBSの目の前には、自動車教習所があったのである。

「空の贈り物」で、ムラマツ隊長にビートルで傘を届けるシーンも一ツ木辺りだった。その回のオープニングの一連は、TBSとその付近で撮影している。

私がテレビ局に入った昭和30年代半ばはビデオテープがあるにはあったが、ほとんどが生放送で、信じられないだろうが、ドラマもスタジオから“ナマ”で送り出していた。

当時のビデオテープは、2インチ(約5センチ)の幅で、もし落とせば足の骨も折れようかというほどのリールの重さと大きさだった。

制作している時間と放映している時間が同時進行だから、こっけいな失敗もたくさんあったし、ドラマの結末が長くなり、後CMをカットするといった、現在では考えられない事態も起こっていた。

でも、ある種の緊迫感があって、現在のドラマ作りとは全然違っていたから、おもしろさの質も生々しかったし、終わって緊張感から抜け出た解放感もひとしおだった。

タイトルをフリップボードにして、スタジオの生カメラの前で一枚一枚手で落としていくスタイルのものでは、落とし過ぎて、いきなり“終”のタイトルが出てしまったこともあった。ほんとうに、開拓者の時代にはこっけいなことが山ほどあったようだ。

私は入社してから、時代劇にAD(アシスタントディレクター)としてつくことが多かったが、その時代劇ですら、赤坂でロケをしていた。現在のホテルニューオータニあたりに武家屋敷の立派な門が残っており、それを北町奉行所にみたててロケをしたことが数回あった。

アメリカ大使館に隣接する氷川神社の境内でも、立ち回りなどをロケしたものだった。現在でも夜間ロケなら、氷川神社で出来ないことはない。ただ、そんな一部分だけのために、誰も許可を取らないだけの話である。いや、神社の方でお断わりになっているのかもしれない。

『大震災よりも、大空襲よりも、高度成長で東京は滅茶滅茶に変わってしまったよ』と、ある古老が苦々しくつぶやいた言葉が、今も耳に残っている。しかし、どう歯ぎしりしようが、歴史の流れは元に戻らないのである。 (終わり)


★★★★★★★★★★★★
実相寺監督が入社した時代は、放送局の黎明期だから、みなが手探りで仕事をしていた時代だったのだ。そういう時代に、「ウルトラマン」のような誰も見たことの無いドラマを撮っていたのだから、凄いとしか言いようがない。

今なら、大概は前例というかお手本のようなものがあるから、それを参考に考えを広げることができる。当時はそういう訳にはいかない。今見たらこっけいな方法でも、その当時はもっともいいアイデアだったなんてことも、あったに違いない。

イチを百や千にするのも確かに大変なのだが、それ以上に、ゼロからイチを生み出すことはずっと困難なのだと思う。
黎明期の放送マンたちよ、どうもありがとう!

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