実相寺監督と赤坂界わい4 [実相寺監督が語るウルトラ3]
赤坂辺りの風景が好きでテレビ局に就職したわけでは、むろん無い。ただ電車ファンとして、都電のある風景では、東京中で赤坂界わいが一番好きだった。
現在の赤坂離宮の横手、ホテルニューオータニを取り巻くお濠の淵を、赤坂見附に向かって四ッ谷(よつや)方面から専用軌道を通って、都電が疾駆してくる様が好きだった。北区滝野川を走っていた電車は他の都電とは様子が違っていたので、利用者たちは習慣で、「王子電車」と呼んでいた。
元来は私鉄だった王子電車が都電に吸収されたもので、車両も王子電車からの引き継ぎが多かったからである。どことなく無骨で、かつての北豊島郡あたりから、荒川へかけて走るのにふさわしいスタイルだった。
国鉄からJRに受け継がれても、つい「国電(こくでん)」と行ってしまう習性のようなものである。私など、つい「省線(しょうせん)」と口にして笑われることが今でもある。ただし、「E電」というよりマシだろう。もっとも、E電とは誰も口にしないが。
円谷プロが出しているファンクラブの会報に目を通していたら、円谷一さんのウルトラQ第28話「あけてくれ!」のロケに使われた都電のことが出ていた。その会報にある“ロケ地を訪ねて”という連載の番外編で、撮影に使用した実際の車両の現状を突き止め、素敵な記事が書かれていた。
それを読んで、私はとてもうれしくなってしまった記憶があるが、もう其の記事の時点からは大分時間も流れている。
ついつい脱線してしまったが、『ウルトラマン』あたりまでの赤坂は、まだのんびりしたものだった。第一、TBSの目の前には、自動車教習所があったのである。
「空の贈り物」で、ムラマツ隊長にビートルで傘を届けるシーンも一ツ木辺りだった。その回のオープニングの一連は、TBSとその付近で撮影している。
私がテレビ局に入った昭和30年代半ばはビデオテープがあるにはあったが、ほとんどが生放送で、信じられないだろうが、ドラマもスタジオから“ナマ”で送り出していた。
当時のビデオテープは、2インチ(約5センチ)の幅で、もし落とせば足の骨も折れようかというほどのリールの重さと大きさだった。
制作している時間と放映している時間が同時進行だから、こっけいな失敗もたくさんあったし、ドラマの結末が長くなり、後CMをカットするといった、現在では考えられない事態も起こっていた。
でも、ある種の緊迫感があって、現在のドラマ作りとは全然違っていたから、おもしろさの質も生々しかったし、終わって緊張感から抜け出た解放感もひとしおだった。
タイトルをフリップボードにして、スタジオの生カメラの前で一枚一枚手で落としていくスタイルのものでは、落とし過ぎて、いきなり“終”のタイトルが出てしまったこともあった。ほんとうに、開拓者の時代にはこっけいなことが山ほどあったようだ。
私は入社してから、時代劇にAD(アシスタントディレクター)としてつくことが多かったが、その時代劇ですら、赤坂でロケをしていた。現在のホテルニューオータニあたりに武家屋敷の立派な門が残っており、それを北町奉行所にみたててロケをしたことが数回あった。
アメリカ大使館に隣接する氷川神社の境内でも、立ち回りなどをロケしたものだった。現在でも夜間ロケなら、氷川神社で出来ないことはない。ただ、そんな一部分だけのために、誰も許可を取らないだけの話である。いや、神社の方でお断わりになっているのかもしれない。
『大震災よりも、大空襲よりも、高度成長で東京は滅茶滅茶に変わってしまったよ』と、ある古老が苦々しくつぶやいた言葉が、今も耳に残っている。しかし、どう歯ぎしりしようが、歴史の流れは元に戻らないのである。 (終わり)
★★★★★★★★★★★★
実相寺監督が入社した時代は、放送局の黎明期だから、みなが手探りで仕事をしていた時代だったのだ。そういう時代に、「ウルトラマン」のような誰も見たことの無いドラマを撮っていたのだから、凄いとしか言いようがない。
今なら、大概は前例というかお手本のようなものがあるから、それを参考に考えを広げることができる。当時はそういう訳にはいかない。今見たらこっけいな方法でも、その当時はもっともいいアイデアだったなんてことも、あったに違いない。
イチを百や千にするのも確かに大変なのだが、それ以上に、ゼロからイチを生み出すことはずっと困難なのだと思う。
黎明期の放送マンたちよ、どうもありがとう!
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現在の赤坂離宮の横手、ホテルニューオータニを取り巻くお濠の淵を、赤坂見附に向かって四ッ谷(よつや)方面から専用軌道を通って、都電が疾駆してくる様が好きだった。北区滝野川を走っていた電車は他の都電とは様子が違っていたので、利用者たちは習慣で、「王子電車」と呼んでいた。
元来は私鉄だった王子電車が都電に吸収されたもので、車両も王子電車からの引き継ぎが多かったからである。どことなく無骨で、かつての北豊島郡あたりから、荒川へかけて走るのにふさわしいスタイルだった。
国鉄からJRに受け継がれても、つい「国電(こくでん)」と行ってしまう習性のようなものである。私など、つい「省線(しょうせん)」と口にして笑われることが今でもある。ただし、「E電」というよりマシだろう。もっとも、E電とは誰も口にしないが。
円谷プロが出しているファンクラブの会報に目を通していたら、円谷一さんのウルトラQ第28話「あけてくれ!」のロケに使われた都電のことが出ていた。その会報にある“ロケ地を訪ねて”という連載の番外編で、撮影に使用した実際の車両の現状を突き止め、素敵な記事が書かれていた。
それを読んで、私はとてもうれしくなってしまった記憶があるが、もう其の記事の時点からは大分時間も流れている。
ついつい脱線してしまったが、『ウルトラマン』あたりまでの赤坂は、まだのんびりしたものだった。第一、TBSの目の前には、自動車教習所があったのである。
「空の贈り物」で、ムラマツ隊長にビートルで傘を届けるシーンも一ツ木辺りだった。その回のオープニングの一連は、TBSとその付近で撮影している。
私がテレビ局に入った昭和30年代半ばはビデオテープがあるにはあったが、ほとんどが生放送で、信じられないだろうが、ドラマもスタジオから“ナマ”で送り出していた。
当時のビデオテープは、2インチ(約5センチ)の幅で、もし落とせば足の骨も折れようかというほどのリールの重さと大きさだった。
制作している時間と放映している時間が同時進行だから、こっけいな失敗もたくさんあったし、ドラマの結末が長くなり、後CMをカットするといった、現在では考えられない事態も起こっていた。
でも、ある種の緊迫感があって、現在のドラマ作りとは全然違っていたから、おもしろさの質も生々しかったし、終わって緊張感から抜け出た解放感もひとしおだった。
タイトルをフリップボードにして、スタジオの生カメラの前で一枚一枚手で落としていくスタイルのものでは、落とし過ぎて、いきなり“終”のタイトルが出てしまったこともあった。ほんとうに、開拓者の時代にはこっけいなことが山ほどあったようだ。
私は入社してから、時代劇にAD(アシスタントディレクター)としてつくことが多かったが、その時代劇ですら、赤坂でロケをしていた。現在のホテルニューオータニあたりに武家屋敷の立派な門が残っており、それを北町奉行所にみたててロケをしたことが数回あった。
アメリカ大使館に隣接する氷川神社の境内でも、立ち回りなどをロケしたものだった。現在でも夜間ロケなら、氷川神社で出来ないことはない。ただ、そんな一部分だけのために、誰も許可を取らないだけの話である。いや、神社の方でお断わりになっているのかもしれない。
『大震災よりも、大空襲よりも、高度成長で東京は滅茶滅茶に変わってしまったよ』と、ある古老が苦々しくつぶやいた言葉が、今も耳に残っている。しかし、どう歯ぎしりしようが、歴史の流れは元に戻らないのである。 (終わり)
★★★★★★★★★★★★
実相寺監督が入社した時代は、放送局の黎明期だから、みなが手探りで仕事をしていた時代だったのだ。そういう時代に、「ウルトラマン」のような誰も見たことの無いドラマを撮っていたのだから、凄いとしか言いようがない。
今なら、大概は前例というかお手本のようなものがあるから、それを参考に考えを広げることができる。当時はそういう訳にはいかない。今見たらこっけいな方法でも、その当時はもっともいいアイデアだったなんてことも、あったに違いない。
イチを百や千にするのも確かに大変なのだが、それ以上に、ゼロからイチを生み出すことはずっと困難なのだと思う。
黎明期の放送マンたちよ、どうもありがとう!
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