仮面ライダー1号秘話(2) ~1号ライダー本郷猛こと藤岡弘、氏が語るライダー撮影秘話! [仮面ライダー1号・その1]
《ウルトラマンに負けるな!》
「仮面ライダー」のライバルは「ウルトラマン」だったと書くと、何か気恥ずかしい。私達が「仮面ライダー」の撮影に入った頃、「ウルトラマン」はすでに三年前から放送されていて、子供たちの大ヒーローだった。
1968年に誕生した「ウルトラマン」は、その四年前、日本の高度成長の原点となった東京オリンピックで金メダルを量産した男子体操競技を出発点としている。とても人間技とは思えない鉄棒や床運動の演技に、「ウルトラC」という称号が付けられた。
そこから、「ウルトラ」というのは人間技を超えた凄いものというイメージが広まり、「ウルトラマン」の誕生となった。言うまでも無く「ウルトラマン」は円谷プロの制作で、TBSが放送して大ブームとなっていた。
それに対して「仮面ライダー」は、なぜライバルというのがはばかられるのか。視聴率から言えば、「仮面ライダー」だって徐々に頭角を現して肩を並べ、全盛期には「ウルトラマン」を抜き去るまでになったのだから、卑下する必要はない。
「ウルトラマン」も今に続く第二,第三のブームを呼んでいるが、「仮面ライダー」だって長寿ブームを誇っている。ここでもひけを取っていない。ところがそれでも私たちが素直にライバルと言えないのは、当時の撮影環境のあまりの違いを知っているからだ。少なくても制作費を比べたら、何倍かの違いはあったのではないだろうか。
円谷プロは特撮の歴史も古く、様々なテクニックを駆使して怪獣の迫力やスケールを上手に撮影していた。「ウルトラマン」はスペシウム光線という武器を持ち、隊員が乗る車や飛行機も近未来を想定した斬新なものだった。それに比べて「仮面ライダー」はどうだっただろう。
画面を思い返していただければわかるが、ライダーに武器は無し。パンチとキックのみ。乗っているのはサイクロン号という名のバイク。時速400キロで走り、30メートルのジャンプが出来るという設定にはなっているが、空を飛べるわけではない。極めて現実的だ。
改造人間の着ぐるみも、よく見ると寸法が合わずに素手が出ていたり、目元から素顔の一部が覗いていたりしたはずだ。撮影も、ライダーは人間の等身大だから、金のかかるセットやミニチュアは無し。撮影方法も、ほとんど特撮は使わなかった。
その代り、生身の人間が高い崖から飛び降りたり、ロープウェイに命綱無しにつかまったり、トランポリンで高く飛び上がったり、水中に投げ込まれたりしていた。つまり、お金はかけないけれど身体は酷使するという、本当の意味のアクションだったのだ。これでは同じ子供のヒーローだからといって、ライバルとは言えない。いや、言いたくない。
自分たちを卑下するという意味ではなく、私達は自分の身体を駆使してヒーローを創り出したのであり、ウルトラマンとは違うと言いたいのだ。だから、「仮面ライダー」のライバルは「ウルトラマン」では無い。むしろプロレスだったり相撲だったりスポーツ番組だったといってもいい。
人間の肉体は、勇気と鍛錬によってどこまで力を発揮できるのか。どこまで不可能を可能にできるのか。どんなに強いものか。どんなに美しいか。無意識のうちに、子供たちはそういうことを感じてくれていたのではないか。それが、人気の秘密だったと思っている。
《ライダーのヘルメットはこうして作った》
「仮面ライダー」の撮影に入る前の最初の打ち合わせ、それは仮面作りから始まった。そもそも仮面もので行こうというのは、プロデューサーの平山さんと放送局との話し合いで決まっていたらしい。当時の子供番組はアニメのスポーツ根性物語が全盛で、実写は「ウルトラマン」でも苦戦していたそうだ。
そういう時代にあって、「仮面ライダー」は土曜夜七時半のお化け番組「お笑い頭の体操」(*)の裏番組としてスタートすることが決まっていた。
(*)1968年2月3日から1975年12月27日までTBS系列局で放送された、大橋巨泉司会のバラエティ番組。後番組は、これはもう有名なクイズダービー。
苦戦は必至。「駄目でもともと」の投げやりな放送枠だったそうだ。「そういうときは周囲を見回して、無いものをやればいいんだ」と、毎日放送の庄野プロデューサーは言ったらしい。確かに二番煎じ三番煎じのアニメを持ってきても、コケることは目に見えている。だったらそれまでにない実写で、しかも主人公が途中で仮面をかぶる「変身もの」はどうだろう、と企画は進んでいった。
このとき平山さんは、主人公が途中で仮面をかぶるよりも、自然に変身して身体の内側からパワーがみなぎってくるのがいいと考えていた。当時アメリカで流行っていた漫画「超人ハルク」の主人公が、そのパターンだったという。怒ると背広を着た肉体が盛り上がって、中から緑色の筋骨隆々の肉体が服を破って現れる。この登場にはインパクトがある。
そのアイデアが重なって、「仮面」+「変身」ということになった。ライダーの仮面やジャンプスーツ、ブーツ、手袋などは、すべてオーダーメイドだった。ヘルメットの内部には、アクションの衝撃を和らげるようにパッドが入っている。被ってみて最初に感じたのは、重心の高さだ。被ると、頭が前のめりになる。問題は視界だった。
仮面越しに前を見ようとしても、視界を確保するための穴が小さくて、両脇と上下が見えない。穴はちょうどライダーの大きな目の下に、細長く切られていた。撮影の最初の頃は、どうしても視界が不十分だから、アクションの加減が分からなかった。どこから敵がやってくるのか、どこに足場があるのか、当てずっぽうでやるしかなかった。
だから戦闘シーンでは、無我夢中でパンチやキックを繰り出して、間違ってショッカー役に当たってしまうことも、しょっちゅうだった。もちろん擬闘とは言っても、真剣な果し合いの方が映像が締まることは明らかだ。迫力ある画が撮れたのは、視界が狭かったからだと言えなくもない。
けれども、当時から私は柔道、空手の有段者だったので、パンチやキックがモロに当たったときの痛みはよく知っている。中には間違ってパンチが顔に入ってしまい、前歯がガクガクになってしまった人もいた。ショッカーを演じていた大野剣友会の皆さんには、たいへんご迷惑をおかけしてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいだ。新人だった当時の必死さに免じて、お許し頂きたい。
★★★★★★★★★★★★
確か、「帰ってきたウルトラマン」の郷秀樹役団時朗氏(当時;団次郎)が、ライバルは「仮面ライダー」だと言っていた。あの頃は仮面ライダーの方が人気が上だったのかもしれない。「仮面ライダー」と「ウルトラマン」は比較できない別物だと藤岡氏が言う理由も、言われてみればそうだなと思う。
どちらも、かつて日本には無かったタイプの新ヒーローなのだ。全く新しい流れを作ってくれた東映と円谷プロには、本当に感謝したい。どちらとも、製作環境に違いはあっても、ちゃんと作ってくれていたことが、長い人気を保っている理由であることに間違いないと思う。
今の時代はCG(コンピュータ・グラフィック)で危険なスタントも画像処理で簡単に映像化できるようになったが、昭和ライダーたちの映像が好感を持って観ることが出来るのは、当時のスタッフの一所懸命な手作り感が十分に伝わる映像になっているからだと思う。
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「仮面ライダー」のライバルは「ウルトラマン」だったと書くと、何か気恥ずかしい。私達が「仮面ライダー」の撮影に入った頃、「ウルトラマン」はすでに三年前から放送されていて、子供たちの大ヒーローだった。
1968年に誕生した「ウルトラマン」は、その四年前、日本の高度成長の原点となった東京オリンピックで金メダルを量産した男子体操競技を出発点としている。とても人間技とは思えない鉄棒や床運動の演技に、「ウルトラC」という称号が付けられた。
そこから、「ウルトラ」というのは人間技を超えた凄いものというイメージが広まり、「ウルトラマン」の誕生となった。言うまでも無く「ウルトラマン」は円谷プロの制作で、TBSが放送して大ブームとなっていた。
それに対して「仮面ライダー」は、なぜライバルというのがはばかられるのか。視聴率から言えば、「仮面ライダー」だって徐々に頭角を現して肩を並べ、全盛期には「ウルトラマン」を抜き去るまでになったのだから、卑下する必要はない。
「ウルトラマン」も今に続く第二,第三のブームを呼んでいるが、「仮面ライダー」だって長寿ブームを誇っている。ここでもひけを取っていない。ところがそれでも私たちが素直にライバルと言えないのは、当時の撮影環境のあまりの違いを知っているからだ。少なくても制作費を比べたら、何倍かの違いはあったのではないだろうか。
円谷プロは特撮の歴史も古く、様々なテクニックを駆使して怪獣の迫力やスケールを上手に撮影していた。「ウルトラマン」はスペシウム光線という武器を持ち、隊員が乗る車や飛行機も近未来を想定した斬新なものだった。それに比べて「仮面ライダー」はどうだっただろう。
画面を思い返していただければわかるが、ライダーに武器は無し。パンチとキックのみ。乗っているのはサイクロン号という名のバイク。時速400キロで走り、30メートルのジャンプが出来るという設定にはなっているが、空を飛べるわけではない。極めて現実的だ。
改造人間の着ぐるみも、よく見ると寸法が合わずに素手が出ていたり、目元から素顔の一部が覗いていたりしたはずだ。撮影も、ライダーは人間の等身大だから、金のかかるセットやミニチュアは無し。撮影方法も、ほとんど特撮は使わなかった。
その代り、生身の人間が高い崖から飛び降りたり、ロープウェイに命綱無しにつかまったり、トランポリンで高く飛び上がったり、水中に投げ込まれたりしていた。つまり、お金はかけないけれど身体は酷使するという、本当の意味のアクションだったのだ。これでは同じ子供のヒーローだからといって、ライバルとは言えない。いや、言いたくない。
自分たちを卑下するという意味ではなく、私達は自分の身体を駆使してヒーローを創り出したのであり、ウルトラマンとは違うと言いたいのだ。だから、「仮面ライダー」のライバルは「ウルトラマン」では無い。むしろプロレスだったり相撲だったりスポーツ番組だったといってもいい。
人間の肉体は、勇気と鍛錬によってどこまで力を発揮できるのか。どこまで不可能を可能にできるのか。どんなに強いものか。どんなに美しいか。無意識のうちに、子供たちはそういうことを感じてくれていたのではないか。それが、人気の秘密だったと思っている。
《ライダーのヘルメットはこうして作った》
「仮面ライダー」の撮影に入る前の最初の打ち合わせ、それは仮面作りから始まった。そもそも仮面もので行こうというのは、プロデューサーの平山さんと放送局との話し合いで決まっていたらしい。当時の子供番組はアニメのスポーツ根性物語が全盛で、実写は「ウルトラマン」でも苦戦していたそうだ。
そういう時代にあって、「仮面ライダー」は土曜夜七時半のお化け番組「お笑い頭の体操」(*)の裏番組としてスタートすることが決まっていた。
(*)1968年2月3日から1975年12月27日までTBS系列局で放送された、大橋巨泉司会のバラエティ番組。後番組は、これはもう有名なクイズダービー。
苦戦は必至。「駄目でもともと」の投げやりな放送枠だったそうだ。「そういうときは周囲を見回して、無いものをやればいいんだ」と、毎日放送の庄野プロデューサーは言ったらしい。確かに二番煎じ三番煎じのアニメを持ってきても、コケることは目に見えている。だったらそれまでにない実写で、しかも主人公が途中で仮面をかぶる「変身もの」はどうだろう、と企画は進んでいった。
このとき平山さんは、主人公が途中で仮面をかぶるよりも、自然に変身して身体の内側からパワーがみなぎってくるのがいいと考えていた。当時アメリカで流行っていた漫画「超人ハルク」の主人公が、そのパターンだったという。怒ると背広を着た肉体が盛り上がって、中から緑色の筋骨隆々の肉体が服を破って現れる。この登場にはインパクトがある。
そのアイデアが重なって、「仮面」+「変身」ということになった。ライダーの仮面やジャンプスーツ、ブーツ、手袋などは、すべてオーダーメイドだった。ヘルメットの内部には、アクションの衝撃を和らげるようにパッドが入っている。被ってみて最初に感じたのは、重心の高さだ。被ると、頭が前のめりになる。問題は視界だった。
仮面越しに前を見ようとしても、視界を確保するための穴が小さくて、両脇と上下が見えない。穴はちょうどライダーの大きな目の下に、細長く切られていた。撮影の最初の頃は、どうしても視界が不十分だから、アクションの加減が分からなかった。どこから敵がやってくるのか、どこに足場があるのか、当てずっぽうでやるしかなかった。
だから戦闘シーンでは、無我夢中でパンチやキックを繰り出して、間違ってショッカー役に当たってしまうことも、しょっちゅうだった。もちろん擬闘とは言っても、真剣な果し合いの方が映像が締まることは明らかだ。迫力ある画が撮れたのは、視界が狭かったからだと言えなくもない。
けれども、当時から私は柔道、空手の有段者だったので、パンチやキックがモロに当たったときの痛みはよく知っている。中には間違ってパンチが顔に入ってしまい、前歯がガクガクになってしまった人もいた。ショッカーを演じていた大野剣友会の皆さんには、たいへんご迷惑をおかけしてしまい申し訳ない気持ちでいっぱいだ。新人だった当時の必死さに免じて、お許し頂きたい。
★★★★★★★★★★★★
確か、「帰ってきたウルトラマン」の郷秀樹役団時朗氏(当時;団次郎)が、ライバルは「仮面ライダー」だと言っていた。あの頃は仮面ライダーの方が人気が上だったのかもしれない。「仮面ライダー」と「ウルトラマン」は比較できない別物だと藤岡氏が言う理由も、言われてみればそうだなと思う。
どちらも、かつて日本には無かったタイプの新ヒーローなのだ。全く新しい流れを作ってくれた東映と円谷プロには、本当に感謝したい。どちらとも、製作環境に違いはあっても、ちゃんと作ってくれていたことが、長い人気を保っている理由であることに間違いないと思う。
今の時代はCG(コンピュータ・グラフィック)で危険なスタントも画像処理で簡単に映像化できるようになったが、昭和ライダーたちの映像が好感を持って観ることが出来るのは、当時のスタッフの一所懸命な手作り感が十分に伝わる映像になっているからだと思う。
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