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実相寺監督と続・ウルトラのステージ [実相寺監督が語るウルトラ3]

回の話で、美センに作った科学特捜隊の本部セットは狭くて・・・という話をしたので、そちらに話をもどそう。セット自体の高さは低かったので、ローアングルでの撮影は難しかった。本部のセットが大きくなったのは、『ウルトラセブン』からだ。

ウルトラ警備隊本部は当時入り口だった辺り、現在の駐車場になっている広場にあったと記憶する。セットは科特隊の倍近くになったと思う。おまけに、本部に通ずる廊下も撮影できるようになっていた。本部の計器類の電飾も、ずっと進歩というか変化を遂げて多彩になっていた。

『ウルトラマン』と『ウルトラセブン』は、東映制作の『キャプテンウルトラ』を間に挟んで引き続いたシリーズだけれども、両者の間に、本部のセットだけではない「大きな時代の谷間」があるような気がしてならない。それを本部のセットや備品、武器等から考えると、次のような結論に達する。

『ウルトラマン』はアナログ時代の終わりを代表し、『ウルトラセブン』はデジタル時代の黎明を表象していると。わずか一年の隔たりなのだが、急成長時代の一年の風景の変化は、アナログ時代の比では無かったのだ。

さらに一年後の『怪奇大作戦』ともなると、ロケ地の風景も現在につながり始めてくる。東名高速道路、環状8号線道路、郊外型ショッピングセンター建設の芽生え。首都高速道路の建設と延伸、マンション建設、路面電車の撤去。郊外世田谷の街も、緑の質を変えていった。

この美術センター(東宝ビルト)では、ステージ撮影のほかにも、ステージ自体をロケセットとして、撮影をしたことがある。『ウルトラセブン』の「円盤が来た(脚本・川崎高と上原正三、川崎高は実相寺監督のペンネーム)」の回がそれで、星を見るのが好きなフクシン君のアパートの外観や近所の自動車修理工のおっさんの家などは、美術センターに付帯するいろいろな建物を見立てて使ったものだ。

別にオープンセットを使ったわけではない。こういった撮影所内の施設を使うことは、劇場用映画でも上手く使っている例はいくらでもある。

余談だが、『帝都物語』の寺田寅彦博士の研究室は、東宝撮影所内の既存の施設を飾り付けて使ったものだ。良き時代の映画撮影所は敷地も広大だったし、映画のロケセットとしても使えるように、洒落た建物を配置していたような気がする。

松竹大船撮影所など、その典型だったのではないか。『円盤が来た』を撮った時にはステージ付属の食堂が無く、小さな食い物屋が門の前に一軒あっただけだったので、よくそこを利用したものだったが、現在は無くなっていた。今ではその代りに撮影所内に食堂が出来ていた。

『怪奇大作戦』の頃、環状8号線道路は世田谷通りから千歳船橋の辺りまでしか完成してなかった。やけに広い道路という印象をうけたものだが、交通量は微々たるものだった。いまや狭すぎるような、車の渋滞が絶えない現在の光景からは、想像できないことである。

とにかく、大手をふってロケーションができたものだ。「恐怖の電話」などで、悠長に道路を横断しメジャーで距離を測るシーンがあるが、いまそんなロケをやろうとしたら、ものすごい量の自動車の流れを遮断しなければなるまい。許可が出るわけもない。

電話からの怪光線で人が焼け死ぬシーンを収めるのに、カポック(*)で出来た造り物を持ち出し、歩道で悠長に撮影したこともあった。実に薄気味悪くできた人形で、当時環八(環状8号線の略称)沿いにあった薬屋さんに軒先を借りて撮影したら、怒られた記憶がある。

その薬屋も、いまは跡形もない。「恐怖の電話」という作品は、主に世田谷を転々として撮影をした作品だった。成城電話局内部のロケから始まり、住宅地を撮りまくったものだ。円谷プロのシリーズは、世田谷を抜きにしては成り立たなかったのである。
(*)発泡スチロール板製のもの

科特隊本部の指令室セットが小さかったので、基地の付帯的な設備を見せるのに、監督たちは苦労したようだった。向ヶ丘遊園と生田の中間にある長沢浄水場などは、科特隊本部として決まったロケセットだった。赤坂TBSの旧テレビ局舎や本館も、よく使われた。

科特隊の廊下や発明家イデ隊員の工作室などは、TBSで決まりだった。TBSテレビ局舎の、三階の一番古いA、B両ステージの屋上に仮設されていた技術部の部屋の一室が、イデの工作室にピッタリだったのである。

環状8号線近辺で、そういったロケセットのひとつに、世田谷体育館がある。『ウルトラマン』の「地上破壊工作」の地底人の本拠地として、ここを使用した。『ウルトラセブン』の「第四惑星の悪夢」の異星空間としても撮影している。どうやら、異次元の空間を表現するのに、その体育館が適当と思っていた節がある。

安直といえば安直だが、円谷プロから近いということもあり、ロケーションに便利ということだったのだろう。円谷プロの近くに異次元空間が求められるなんて、けっこう素敵なことでもあろう。そういった一種の“運”とか“ツキ”も、撮影には欠かせないものなのだ。   (つづく)


★★★★★★★★★★★★
この記事を読んでいて思うのは、昭和40年代はのんびりした、良い時代だったのだろうということだ。「のんびり」という言葉は当たらないかもしれないが、高度経済成長の始まりで、「怪獣墓場」の回などで赤い骨組がむき出しの首都高速道路建設途中のミニチュアが出てくるように、東京が「日本の首都」として着々と建設されてゆく様子が、この当時に作られた特撮作品に映像として残っていることが、うれしくもあり懐かしく感じられるのである。「テレビの映像」は、それを撮影した時代の様子を色濃く反映しているわけで、「時代を写す鏡」なのである。


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