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宮内洋、ヒーロー一本道(1) ~ありがとう!ライダーV3、ありがとう!風見志郎 [宮内洋・1]

宮内洋氏は、子供の頃からヒーローだった。と書くと「えぇ~」となるが、本名でもある宮内洋という名前を友達は、遊びに誘う時に『ヒ~ロ~』と大声で呼んでいたという落ちである。

男兄弟の真ん中で、厳格な父に育てられたおかげで、『兄を尊敬し敬う気持ち』と『弟をいたわる気持ち』が養われ、人としての道、けじめを教わったと言っている。またそのことが、「正義とは何か」を常に考えることの伏線になったとも言っている。

では、宮内洋氏の話をどうぞ。


◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
東映ニューフェースとしてこの業界に入った宮内氏は、霊界の宣伝マンと自称していた故・丹波哲郎氏を師と仰ぎ、TBSの『キーハンター』というスパイもの番組で本格アクションを身に付けていくことになる。

ある時、「東京の毎日放送へ行くよう」に言われたが、これこそが『仮面ライダーV3』のオーディションであった。毎日放送の局長、部長クラス、東映のプロデューサーらがズラリ並んでいる所で、『東映の宮内洋です』と普通にあいさつしたのだが、その態度が『俺は東映の宮内洋だ!』のごとく大きくみえたとか。

当時その場にいた平山亨プロデューサーがそう言うのである。やがて主人公・風見志郎役は10人に絞られて、その時点で宮内洋に決定した。東映で制作していることは知っていたが、一度も観たことのなかった『仮面ライダー』だった。

早速ビデオデッキを買って放送を見たら、その頃は1号2号のふたりのライダーが活躍していた。師匠の丹波哲郎氏にこのことを話したら、『お面で顔も判らないような役なら、やめっちめぇ』と言われて、『はじめは素顔で出て、あとでヘンシンとやってお面になるんです』と答えたら、『フーン、そうかい』という会話があったことを思い出すという。

ある日、マスコミを集めてV3の撮影会が行われたときのこと。宮内氏はまだ他の映画撮影をしている最中で、チンピラやくざ役だったので髪は短かった。当時ヒーローは、髪が長くアイドル系がいいということだったため、この撮影会と本編撮影が始まってからの最初の12本は、短い髪を隠すためにカツラを付けて演じていたという。V3、26の秘密の一つであろう(笑)。

初日の撮影でバイクが転倒・大破させてしまった宮内氏だったが、撮影半ばも過ぎてキバ男爵の頃には、バイクチェイスで普通に突っ走るところを、トランシーバーで会話しながら走ることもやるようになっていた。これはこのトランシーバーを刀代わりにして、横で伴走している敵とバイクに乗ったまま戦うというシーンを撮りたかったからである。

ツバサ軍団の頃には、バイクで敵を追跡するシチュエーションで、木と木の間をバイクですり抜けていく風見志郎に戦闘員が両側からロープを投げ、風見はロープに引っ掛かり絡めとられて、バイクだけが走り抜けていくというシーンがあった。

このシーンも宮内氏が演じて、バイクは大破しないように砂地のような場所で撮影した。これらは必ずしもストーリー上撮らないといけないシーンではないかもしれないが、宮内氏は自分のアクションに新しい味付けをしたかったのだった。

常に新しいことを考えて、監督に進言する。それによっていいアクションが撮れたなら、それは東映の評価が高まることにつながる。自分は東映所属の役者だし、スタッフも東映の社員。良い作品を撮るためには、危なくない程度の無理・無茶もしようという心意気であった。

『仮面ライダーV3』の地方ロケーションは、伊豆、浜松、高知、愛媛があった。高知と愛媛では現地の子供たちに少年ライダー隊として参加してもらうため、夏休み期間中にロケーションが行われた。フェリー『さんふらわあ』号を使っての移動であった。

この船での移動中も撮影をしながらの行程。愛媛松山の奥道後観光ホテルでの大ロケーションを行った。ホテルの庭園内で火薬を使ったり、松山城の階段でバイクを走らせたり、ロープウェイの上に登ったりと、とにかく派手にやった。

この時はテレビの前後編と映画の合計3本持ちだったが、制作費を使いすぎて金が無くなり、ホテル側に『ステージでアトラクションをするから』というお願いをして、無料で酒を飲ませてもらったという逸話がある。ちなみにその時に約束したアトラクション内容は、宮内洋1曲唄(柳ケ瀬ブルース)と大野剣友会の殺陣だったそうである。

撮影も終盤に来て、ライダーマン登場編がある。デストロンの科学者でありながら、優秀さをねたまれてヨロイ元帥に処刑されかかった半改造人間だ。時にはV3の味方になり、時には敵に回る。デストロン首領に逆らいきれない立場が、彼をそうさせる。

このキャラクターがいたからこそ、プロトンロケットのエピソードは大いに盛り上がった。ライダーマンがいなければ、ロケットの爆発阻止を誰がするのか。V3が身体を張って阻止するわけにはいかないだろう。ライダーマンがやってくれたからこそ、あそこまで悲壮感あふれる名シーンになったに違いない。

身を挺して東京を救ったライダーマンは、まさに『仮面ライダー4号』の名にふさわしい男だ。宮内氏は、この『ライダーマンの最期』に花を添える言葉をつぶやくシーンは、夕陽の時間帯を待って悲壮感を出そうという演出を考えた。夕暮れに、あのセリフは心にしみるものになると思ったからという。

『仮面ライダーV3』は、視聴率好調のうちに終わりを迎える。企業の宿命か、番組の打ち切りに対して現場の人間は何も言える権利を持たない。

普段なら宮内洋=風見志郎=ヒーローとして自覚を持ち、行い等にも努力していたが、最終回を告げられた日の夜だけは、風見志郎、いや宮内洋は新宿歌舞伎町で涙しながら呑んでいたという。そんな宮内氏の相手をしてくれたのが、長石多可男監督(当時助監督)であった。

その夜はヒーロー風見志郎を忘れて、飲んだという。こうしてヒーローというものを深く考えるきっかけをつくってくれた『仮面ライダーV3』は、終わった。「ヒーローとしての心構えを教えてくれた風見志郎よ、ありがとう。そして仮面ライダーV3よ、ありがとう」 (終わり)



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