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レインボーマン(13) ~一所懸命さっていうのは技術を超えるのよ、テクニックより(監督/六鹿英雄氏)その2 [レインボーマンこぼれ話2]

(前回から続き)
聞き手;
「東映でも、わざわざ日活のスタジオを借りてアフレコしていたそうですからね」

六鹿氏;
「そうそう、仮設スタジオ。それがいっぱいあってね、一番賑やかな時で20組くらい入っていたんじゃないかな。あの頃はどこもすごい活気がありましたね」

聞き手;
「それにしても、当時の俳優陣はみなさん芸達者でしたね。『レインボーマン』にしろ『ダイヤモンド・アイ』にしろ、セリフがアフレコとは思えないくらい臨場感に満ちていますが」

六鹿氏;
「僕はアフレコとかダビングが嫌いでね。でもしょうがない、仕上げだから。で、今はダビングなんかも簡単でしょう。当時はね、けっこうダビングは時間がかかったわけね。あの頃30分もの二本で、1本は確実に一日掛かりだったね。そういう時代でしたよ。だからアフレコは嫌いだったけど、とにかく気合を入れてやるしかないわけね。で、気合を入れてやると合わないんだよ、口が。そうするとボクせっかちだからイライラしちゃって。だからその場でセリフ自体を変えちゃってましたね」

聞き手;
「セリフを変える際には、伊東さんとミーティングはされたんですか?」

六鹿氏;
「いやいや、そういうのは特別に無いね。変えるんなら、もう直接変えちゃうってことで。今でも伊東さんとは交流ありますけどね。彼は人間的にできた人だったから、一切文句言わないんですよ」

聞き手;
「伊東さんによれば、『レインボーマン』のホンは川内先生から直接サジェスチョン(示唆、提案)を受けていたと」

六鹿氏;
「そうそう。やっぱり川内先生の言う通りに書いていた。で、僕はそれをぐちゃぐちゃにしちゃったという(笑) ぐちゃぐちゃにというのは言い方が悪いんだけれども、良い作品を創るためにはこうした方がいい、ということでね。僕なりのひとつの哲学で変えたんですけどね。それを川内先生にも、そうハッキリ申し上げた。そういう面で恒に反抗児だった。でも、先生には可愛がってもらったね」

聞き手;
「『レインボーマン』のお話は、国際放映から来たんですか?」

六鹿氏;
「そうそう、国際放映からだね。あれ、東宝の作品なんでしょ。国際放映でみんなやってたんですよ。国際放映と東宝っていうのは、兄弟みたいな会社だったんですよ。『レインボーマン』は最初、助監督で関わったの、チーフでね。それ以前に監督で何本か撮っていたから、いまさら助監督なんてイヤだって言ったの。若かったんだねぇ。

そうしたら、川内先生が、六ちゃん(六鹿氏のこと)やってくれ。その代り2クール目から監督やってもらうからって言うんで。ゴネたけど、まぁしょうがないからっていうレベルですよ。それまでは、30分モノっていうのは知らないし。僕はデビュー作が1時間の探偵ドラマで、以降ずっと1時間ものばかり撮ってたからね。30分ものは初めてだった。最初は戸惑いましたけどね」

(つづく)


★★★★★★★★★★★★
六鹿氏は大学卒業後、国際放映に入社。助監督としてドラマを中心に活躍されていた。その後監督としてデビューするが、助監督時代から脚本家としての顔も持っていた。松方弘樹主演の1時間の探偵もの『事件とあいつ』(68年)でデビューした。当時は今とは違い、脚本家のポジショニングは低かったらしい。今の脚本家なら一行一句変えては駄目という人もいるらしいが、六鹿氏にすればとんでもない話で、良いドラマを創るためには脚本どおりっていうのはまず無かったという。映画最盛時代では、監督と脚本家が良いものを創るために真剣にぶつかり合ったそうだが、テレビ時代に移り、監督と脚本家がぶつかり合うほどのことは無くなったという。脚本家に比べて監督側の力量が、成熟されていないかららしい。



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