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人造人間キカイダー・キカイダー01の世界観を作った男!(1) ~脚本家・長坂秀佳氏 [キカイダー対談・2]

プロフィールによると、子供時代は本が大好きで、もっぱら貸本屋に入り浸り、貸本屋の本をすべて読み漁った程の本の虫だった。高校卒業後に上京し、プラスチック工場で働いた後に東宝撮影所に入社。在職中にNHKシナリオコンクールでデビューし、その後フリーになる。

筆が非常に早く、締切りを必ず守ることで通っていた。「1日に30分ものが3本書けるくらいが、良いペースだ」と豪語していた。『快傑ズバット』を最後に特撮作品から距離を置き、大人向けドラマを主に執筆する。

その理由として、「特撮作品でやりたい事は”快傑ズバット”で全てやり尽くしたから」と語っている。1980年代になり、たまたまテレビで『仮面ライダーBLACK』を見て、特撮作品執筆の意欲に駆られたが、「ギャラが高すぎる」という理由で参加を断られたという。
では、長坂氏のインタビューをどうぞ。


聞き手;
「『人造人間キカイダー』に参加されるきっかけは?」

長坂氏;
「最初は伊上さん(伊上勝;脚本家・故人)が演っていて、俺はあの時、「刑事くん(71年)」をやってたのかな。その流れで、平山さん(平山亨氏;東映プロデューサー・故人)から話をもらってね。「『仮面ライダー(71年)』とかも、書いてみないかって?」って言われて。

ちょこちょこやってたら、こんどは『キカイダー』の話があった。で、俺はそういうふうに呼ばれて入ったら『作品世界を乗っ取っちゃう』と最初から決めてるから。でね、そこまでのキカイダーの脚本見てたら、キカイダーが善と悪との間で悩むみたいな設定があるのに、そういうことで悩む姿が無い。

ただ特殊能力を持つ正義の味方が悪者どもをやっつける、そんな話ばっかりだった。だからキカイダーが、人間と機械の狭間で悩む、善と悪との間で悩む姿を描きたいと思ってね。俺はどんな敵を出すとか、どういう作戦を練るかとか、どうやって敵を倒すかというのは二の次でね、自分とどう戦うか・・・いつもそこから決めていくんだ。

テーマとか問題とか事件とか作って、それとぶつかった時にどう自分と戦うか、自分に負けない様にどう戦うかという創り方なんで。もちろん相手のキャラクターは考えるけども二の次でね、戦いなんかやらなくてもいいとさえ思う。

でもおもちゃ屋のスポンサーさんの関係で、最低限入れなければいけないから、3分くらい(戦いの場面を入れる)。絶対に5分以上はやらない。ただ戦いを描いているうちに、新しいワザを考えちゃったりする。そんな風にしている間に、だんだん本数が増えて来て。

締め切り守るし、筆が早いとなればさ。当初の予定通り、乗っ取りに成功したわけ(笑) だから後半はほとんど俺で、キカイダー01では完全に長坂体制だったもんね」

聞き手;
「その後半やゼロワンでも、序盤で目立ったのがハカイダー4人衆でしたが」

長坂氏;
「撮影所に行ったら積んであるんだよ、ハカイダーのぬいぐるみが3つも。『なんで、あんなにたくさんあるのよ?』って聞いたら、あれはスペアですよ、アクションするから傷んだ時のためのスペアなんです』って。これじゃ勿体ないから使おうよって、ハカイダー3兄弟を作ろうと。

それでレッド、ブルー、シルバーのハカイダーが生まれることになったんだよ。そしたら、この間もらった原作コミック読んだら、原作の方にも使われてたんだね、4人衆が」

聞き手;
「アイデアをフィードバックされたところもあったようで」

長坂氏;
「ホントは原作料貰わないとなぁ(笑) 『01』は何か新しいものを創るという態勢ではなかった感じがするんだよね。いつの間にか、タイトルが変わった。ある日突然、ジローが池田駿介のイチローになって。改まって、今度『01』になったからどうするとか、大きな打ち合わせは無かったように思うんだよ。

今でもハッキリ覚えているのは、東映の渡辺亮徳部長の部長室で、タイトルを『キカイダー01』にするか『01キカイダー』にするかっていう会議をやって、延々と何時間もやったんだよ。

どうしてそうなったかというと、俺が一人で反対意見を出したから(笑) 『〇〇レオ』とか『〇〇X』みたいにうしろにつくのはそこら中あるから、新しい『01キカイダー』でやりたいって言ったんだよ。

監督もプロデューサーもみんなで6~7人は、『キカイダー01』の方がいいって言ってね。石ノ森さんも俺の主張には賛成だったんだよ。でも多数決で決めたらだめだったね、俺一人だけだもの」  (つづく)


★★★★★★★★★★★★
特撮ものの脚本を多く手掛けていた伊上 勝氏について・・・大学卒業後、広告代理店に入社。『遊星王子』の脚本が入選、テレビドラマとなった『遊星王子』の原作・脚本を担当することとなり、これがデビュー。31歳のとき手掛けた『隠密剣士』で忍者ブームを巻き起こす。

この時に考えた忍者の小道具や忍法のアイデアが、忍者物の基本パターンとして今日まで踏襲されている。1967年、『ジャイアントロボ』を担当し、同作の怪獣のアイデアは、のちの『仮面ライダーシリーズ』に登場する怪人たちの元になったと語っている。

悪の組織の大幹部が次々と交代するフォーマットも本作で確立された。ちなみに『仮面の忍者 赤影』は組織ごとチェンジする方式であり、ともに『仮面ライダーシリーズ』で全面応用されている。(ショッカー→ゲルショッカー、ゲドン→ガランダー帝国など)

1971年、40歳の時に仮面ライダーを手掛ける。長坂氏とは違い、「締め切り守っちゃダメだよ、ギリギリまで伸ばしたほうが直しがないから」と言っていたという。

伊上氏とコンビが長かった平山氏は、京都で時代劇に関わってきたため、『仮面ライダー』は「時代劇でいいんだよ」と伊上氏やスタッフを引っ張る。

伊上氏が得意とした「人の目を忍んで活躍する主人公」や、「人知れず暗躍する悪の組織」といった忍者物時代劇の図式をそのまま現代劇に応用させ、以後の東映ヒーロー番組の定番フォーマットとなった。1991年、60歳の時に肝硬変のため死去。

伊上・平山コンビが1970~80年代にかけて、筆者と同年代の子供達に夢と希望を与えるような作品を次から次へ生み出してくれた。

60歳で他界された伊上勝氏の才能と血は、その実子・井上敏樹氏がバトンを引き継ぎ、平成ライダーたちを生み出して今日に至っている。この親子リレーはとてもうれしいことであり、感動的ですらある。昭和と平成のヒーロー達に、栄光あれ!


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