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実相寺監督と世田谷の街とウルトラマン [実相寺監督が語るウルトラ1]

実相寺監督は、世田谷という土地に縁があるようだ。通っていた都内の小学校の農園が世田谷の用賀にあったそうで、その農園へ野菜作りにかよったものだったと書いている。


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人になって円谷プロへ出入りするようになった頃でも、世田谷界わいは今では想像もつかないほど緑に囲まれていた。その当時、山手線の環状の外へ出る電車を郊外電車と呼んでいた。今では死語になっている言葉だが、その理由は通勤圏があまりにも拡大して宅地だらけになり、郊外の区分けがつかなくなったからだろう。

昔なら、しだいに人家がまばらになり、灌木林が増え、緑の丘陵が迫ってきて、郊外だなぁと思わせる景色がそこかしこに見られたが、世田谷もそのひとつだった。世田谷は、豊かな緑と農園と菜園と果樹園と植木市と、空気と水のきれいな別天地という印象だった」と書いている。

確かに筆者の記憶でも、40年程前に郊外のある街に引っ越した当時は(世田谷とは正反対の方角だが)、ミドリばっかりで夜になれば車の音など一切しない、都心から来ればそれは寂しい思いがしたものだった。だが今思えば、朝は野鳥の声がし、夜になれば星がきれいに瞬くこんな静かな環境は、とても今は手に入らない。実に贅沢な良い時代であった。

「世田谷には満点の星があった」と以前小説に書いたように、「宇宙に近いな」ということが砧(きぬた)あたりで実感できたのである。こんな環境と時代からウルトラマンは生まれた、とつくづくおもう。私には「ウルトラマン」の時代が、環境のあり方を抜きにしては成り立たないことを痛感してしまう。ヒーローは、誕生した時代背景と自然環境から切り離せないものなのである。

ウルトラマンやひろく言って全ウルトラシリーズは、やっぱり時代の申し子であり自然の産物としか思えない。それが作られた折の影を背負っている。初代ウルトラマンが誕生して40年以上もの時が流れたが、現代に置き換えることが不可能な、時代に密着したにおいと技術と空気感が、あのシリーズには漂っていたのだとおもう。(次へつづく)


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ウルトラシリーズの根幹をなすウルトラQ・ウルトラマン・ウルトラセブン。この第一期ウルトラシリーズは、《お手本となるものが無かったが故に、みんな毎日手探りで必死でやっていた。今日した仕事が明日のお手本になった。
だからしっかりと作らざるを得なかった》と満田監督が言っているように、その時にできる精一杯のことをしたその結果、ウルトラマンは世代を超えるヒーローへと成長したのだと筆者は思う。


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